残暑がそろそろ衰えかけた9月の終わり頃に、僕の惨状を聞いた啓太は、いっしょに六本木のキャバクラに遊びにいくことを提案した。やはり持つべきものは友である。啓太の奥さんは妊娠して、実家に帰っていた。もうすぐあの啓太がパパになるというのが、僕には信じられなかった。啓太は、新卒で専門商社に入社し、ずっと同じ会社に勤めている。仕事も順調なようだった。
土曜日は21時に、六本木ヒルズにあるバーで待ち合わせた。
啓太はすでにいて、ひとりでビールを飲んでいた。
「乾杯!」久しぶりの再会を祝って乾杯した。
僕たちがバーカウンターで、よく冷えたビールを飲んでいると、後ろのスタンディングテーブルに、ものすごい美女の3人組がいることに気がついた。身長はみな170センチ以上あり、さらにピンヒールを履いていたので僕より背が高かった。ひとりは派手な花柄でボディラインがくっきりとわかる、背中が全部開いたドレスを着ていた。真ん中の女も、美しいボディラインが際立つ真っ白いワンピースを着ていた。最後のひとりは青い生地の上に複雑な模様が描かれた高そうなドレスを着ていて、やはり美しいボディラインが見えていた。ファッションショーからそのまま出てきたみたいだ。
「あんな綺麗な女がいるんだな」僕は言った。
「東京にはモデルや芸能人もよくいるからな」
「どんなやつらが、ああいう女とつきあうんだろうな?」
「IT企業の社長みたいな金持ちだよ」啓太が言った。
美しい顔、日本人離れしたスタイル、そして高級感あふれるファッション、これらすべてが高い壁となって、いつも根拠のない自信を振りかざしている六本木の男たちさえ怖気づかせていた。
バーにその男が入ってきたとき、ジョッキの中のビールの表面が少しざわめいたような気がした。派手なTシャツの上に、黒のジャケットを羽織ったその男は、何か不思議な光につつまれているようだった。
そして、あの3人組のほうにすたすたと歩いて行った。
音楽がうるさくて、どうやって声をかけたのかわからないが、いつの間にか、彼が話題の中心になっているようで、彼女たちは楽しそうに笑っていた。最初から知り合いだったのだろうか。
僕は彼女たちがどんなことを話しているのか気になって、そっと近くに寄り、耳を澄ませた。しかし、その男は会話するのをやめて、おもむろに3人組の美女のなかでも、白いワンピースの一番の美女とキスをはじめた。まだ、会ってから15分も経ってないのに!
彼は啓太が言ったように、IT企業の社長かなんかで、じつは恋人同士なのかも知れない。見ていると、キスがどんどんエスカレートしていく。むしろ彼女のほうが積極的に彼に絡んでいる。
「これ以上先は別料金だよ」美女の手を払いのけて、その男は言った。彼女は楽しそうに笑っている。
「ちょっと会議で行かなきゃいけないんだ。どうしたらまた会えるかな?」
「だったら電話して」彼女は名刺みたいなものをその男に渡していた。
「オッケー、明日の10時に電話する」
「待ってるわ」
まったくの初対面じゃないか! あの男は、たったひとりで3人組の美女に話しかけて、みんなを楽しませながら、いつの間にか自分が話題の中心になり、ものの15分もしないうちにキスして、その上で連絡先まで聞き出している。いや、むしろ女のほうが連絡先を教えているじゃないか。
僕はまるで魔法を見せつけられたようだった。
次の瞬間、僕と彼の目が合った。僕は心臓が止まりそうになった。メガネをかけていないからわからなかったけど、あれはクライアントの永沢さんじゃないか。あの真面目そうな永沢さんが、こんなすごい男だったなんて。
彼がバーを出ていくところを、僕は追いかけて、話しかけた。
「な、永沢さんですよね?」
「ああ、わたなべ君か。恥ずかしいところを見られちゃったね」
「恥ずかしくなんかないですよ。めちゃくちゃすごいじゃないですか」
「悪いんだけど、すぐに行かなくちゃいけないんだ。今度飲みに行こうよ」
「はい。ぜひ!」
「チャオ」
◆
目覚めると、僕は鮮明に昨夜のあの3人組の美女たちと永沢さんのことを思い出していた。
あの後、啓太が営業でたまに使うというキャバクラに行ったのだけれど、僕はまったく楽しめなかった。確かにキャバクラは若くてかわいい女の子がたくさんいるのだが、営業トークを続けるキャバ嬢たちと、常識的な金額でセックスまで辿り着けると楽観的に考えることはできなかった。実際、昨夜は、僕たちはひとり1万5000円ずつを使って、手に入れたものと言えば、ふたりのキャバ嬢の営業用の名刺が2枚だけだった。
しかし、啓太との久しぶりの再会も、華やかな六本木のキャバクラも楽しめなかったのは、なんといってもあの3人組の美女と永沢さんの印象があまりにも鮮烈だったからだ。あの3人組の美女たちに比べると、キャバ嬢たち全員が霞んで見えてしまった。
コーンフレークに牛乳をぶっかけて朝食を済ますと、僕はいてもたってもいられなくなってオフィスにやってきた。アルファキャピタルの永沢さんの名刺を探すためだ。幸いなことにそれはすぐに見つかった。
僕はメールを書いた。
>永沢さん、
>
>昨日は、あんなところで再会できてとても嬉しかったです。
>永沢さんがまた僕と飲む約束をしたことを覚えていますか?
>じつは、昨年にバイオ企業の特許権侵害訴訟の仕事を終えたときも、
>飲みに行く約束をしていただいたのですが、それも実行されていません。
>今度こそ、本当に飲みにいきたいです。
>お忙しいとは思いますが、お返事期待しております。
>
>わたなべ
週末の誰もいない事務所で、僕はひとりでネットサーフィンをしていると、永沢さんから思ったよりも早く返事が来た。
>わたなべ君、
>
>もちろん、約束は覚えているよ。
>明後日の火曜日の夜は空いてるかな?
>
>永沢
すぐに「もちろん空いています!」と返事を書いた。
しばらくすると、六本木の焼き鳥屋を火曜日の午後7時半に予約した、と返信が来た。
僕の人生が、何か大きく変わりはじめるような予感がした。
◆
期待と不安で迎えた火曜日。
永沢さんは7時半きっかりに現れた。あのまん丸いメガネをかけていて、チノパンに白いワイシャツ、革のカバンというラフなかっこうだった。
「永沢さん、今日はわざわざ時間を取っていただいてありがとうございます」
「そんな堅苦しい言い方はやめてくれよ」
僕が、自分の学生時代だとか、どういう経緯で弁理士になっただとか、そんな自己紹介をしていたら、注文したビールが運ばれてきた。
「わたなべ君のおかげで、この前はずいぶんと儲けさせてもらったよ」
「えっ、そうなんですか?」
「あの会社は、特許権侵害の訴訟を起こされて、株価が急落していたんだ。しかし、わたなべ君の分析のおかげで、今回の裁判は負けそうにないことがわかった。だから、暴落しているところで、大量に株を買うことにしたんだ」
「地裁では、予想通り特許が無効という判決が出ましたね。すぐに株価が急上昇しました。なるほど、そういうことだったんですね」
嬉しそうにビールを飲んでいる永沢さんを見て、あのとき一生懸命仕事をしてよかった、と思った。それから、あの仕事をしていたときの麻衣子とのつらい出来事を思い出していた。失恋すると仕事も手がつかなくなるという人もいるけど、僕は恋愛でつらいことがあると、それを他のことで取り返そうとするタイプだった。ぐっすりと1日か2日眠り込めば、少なくとも仕事や勉強に集中することはできた。
「じつは、あのときは大好きだった彼女と別れた直後で、とても大変だったんですよ。僕が永沢さんみたいにモテる男だったら、こんなことで苦労しないんでしょうけどね」
「なんだ、女にモテたいのか?」
僕はうんうんとうなずいた。それこそが、僕がこうして永沢さんに会いに来た本当の理由だったからだ。別に特許の話をしにきたわけでも、永沢さんから株式投資の話を聞きにきたわけでもない。永沢さんにモテる方法を教えてもらいたかったし、あわよくば永沢さんに合コンなんかに呼んでもらって、女を紹介して欲しかった。
心に溜まった澱を全部吐き出すように、これまで僕がいかにモテなかったのか、包み隠さず話した。
永沢さんは焼き鳥を食べながら、僕の話を一通り聞き終わると、質問してきた。
「わなたべ君、ところで女にモテたいっていうけど、モテるってどういうこと?」
「それは……、女の人に好かれるということです」
「好かれる? どういうふうに? その女子大生の美奈って子からも、ある意味で好かれてたんじゃないの? わたなべ君は」
「そのう、友だちとしてとかじゃなくて、僕はお付き合いがしたいんです」
「お付き合いして、何がしたいの?」
「いっしょにご飯を食べたり、旅行に行ったり。もちろん、セ、セックスもしたいです。でも、それがすべてじゃありません」
永沢さんはメガネを外してケースに入れると、それをカバンの中にしまった。まったく雰囲気が変わった。
「お前、本当はセックスがしたくて、したくてしょうがないんじゃないのか?」
もちろん、セックスは恋愛のなかのひとつの要素だが、それがすべてじゃない。僕が反論しようとすると、永沢さんは「お前は、典型的なセックス不足の男だな」と、哀れむような口調で言った。僕は心の中で反発しながらも、事実なので黙ってうなずいた。
「お前みたいな欲求不満のその他大勢の男がやることといったら、非モテコミットとフレンドシップ戦略だけなんだよ」永沢さんは耳慣れない言葉を言った。
次回、「chapter1-6 愛の方程式」は9/11更新予定
藤沢数希さんが描く純愛小説、ついに書籍化! 『ぼくは愛を証明しようと思う。』6/24(水)発売予定です。
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