2月の終わりのとても寒い日に、僕を絶望の淵から救い出したのは美奈だった。彼女は法学部の学生で、週に2日か3日、青木国際特許事務所でアルバイトをしながら資格試験の勉強をしている。オフィスに来ると、美奈からはじめての電子メールが届いていた。
>わたなべさん、
>
>資格試験の勉強で相談したいことがあります。
>いっしょにランチでもしませんか?
>お返事待ってます(^_^)
>
>みな
僕が麻衣子と別れたことは、彼女の耳にも入っていて、これはひょっとしたら僕に気があるのかもしれない。特に顔文字の辺りがそう感じさせた。
>もちろん。さっそく今日のランチは? わたなべ
彼女はすでにオフィスに来ていて、壁際の机でPCに向かって作業をしていた。すぐに返事がきた。
>ワーイ(*^-^*) みな
僕たちは、はじめてのデートをすることになった。事務所から5分ぐらい歩くと、芝浦の運河にたどり着く。そこのリバーサイドに美味しいイタリアンがあって、僕たちはその日いっしょにランチを食べに行くことになった。ふたりとも日替わりパスタを注文した。
美奈は文系だが、科学に興味を持っていた。だからこそ弁理士事務所でアルバイトをしている。試験の勉強をしていると、どうしてもよくわからないことに度々出くわして、それを僕に聞きたいようだ。工学部出身の僕は、もちろんふたつ返事で彼女の家庭教師の仕事を引き受けた。
それ以来、事務所のスタッフが帰宅する午後7時過ぎぐらいに、美奈は教科書を持って、僕のデスクに質問に来た。僕は彼女がわかるまで、いつもていねいに教えてあげた。もちろん無料で、だ。
◆
美奈とふたりではじめてランチに行った日から1ヶ月が経ち、春が少しずつやってきた。僕の生活も変わっていた。たとえば、性風俗店に行かなくなった。彼女が事務所に来る日は、通勤電車の中で思わず笑みがこぼれた。
美奈は、高級バッグを持ち逃げして、ひとつも連絡をよこさなかったあの女よりも、かわいくて、性格も良さそうだった。このまま美奈とつきあうことになれば、まさに、怪我の功名、災い転じて福となす、じゃないか。僕はいつデートを申し込もうか、そのチャンスをうかがっていた。
>わたなべさん
>
>いつもわからないことを教えてくれてありがとうございます(>_<)
>じつは、今週の土曜日に引っ越すんですけど、手伝いにきてくれませんか?
>
>みな
どうやら恋愛の女神様から、完全には見放されていなかったようだ。ふたつ返事でOKした。あの金鉱掘りみたいな女と別れてからというもの、週末は常に空いていたからだ。車は美奈の友だちが用意しているので、僕はただ彼女の家に行けばいいとのことだった。
引っ越しデートのことを思うと、その週はずっとそわそわしていた。仕事が終わったあとも、自分の時間を美奈の家庭教師に捧げてきた甲斐があったのだ。ついに、報われるときがきた。
◆
土曜日は快晴だった。3月の終わりでも、まだ肌寒い。午後1時、僕はユニクロで買ったダウンジャケットを着て、大井町にある美奈のアパートに向かった。
「あ、わたなべさん。来てくれてありがとう。どうしても私たちだけで運び出せなくて」
美奈は僕を部屋の中に招いた。
小綺麗なワンルームマンションの中には、まだ肌寒いというのに、穴がたくさん空いたジーンズに、黒のタンクトップの上にグレーのパーカーを羽織った男が立っていた。こいつは誰だ、と僕が思っていると、美奈がすぐに僕に紹介した。
「彼氏の恭平です。テヘヘ」
「わたなべ先輩っすね。いつも美奈がお世話になってるみたいで、ありがとうございます」
そいつは外見の割には礼儀正しいやつだった。このあと、美奈と新しい部屋でふたりきりになり、とうとう結ばれることを予定していた僕は、当然ながらショックを受けるとともに、この展開になんだか妙に納得もしていた。
「わたなべ先輩の手を煩わせないために、朝からふたりでがんばってたんすけど、どうしてもこいつだけは男がふたりいるんっすよ」恭平はそう言って、一人暮らしにしては大きい冷蔵庫と洗濯機を指さした。
美奈が小さいものをトラックに積み込んでいる間、僕は恭平とふたりで冷蔵庫と洗濯機を運ぶ作業に取り掛かった。彼は慎重に僕とタイミングを合わせて、冷蔵庫を持ち上げた。それからふたりでトラックまで運んでいき、ゆっくりと荷台に載せた。同じ要領で洗濯機も運んだ。
とうとうトラックにすべての荷物を積み込み、僕たちは祐天寺の新居に向かうことになった。恭平が運転して、僕はそれほど広くないトラックの助手席に美奈とふたりで座ることになった。狭い車内で、彼女の身体に密着できたのが少し嬉しかった。
新居もワンルームで、こちらは築年数がずっと浅かった。冷蔵庫と洗濯機を運び入れると、僕の仕事は終わりになった。玄関で、恭平は僕に礼を言うと、ダンボール箱を運んでいた美奈を呼び止めた。
「おい、美奈、お前もちゃんと礼言えよ」恭平はそう言って、美奈の頭をつかんで、お辞儀をさせた。
「わたなべさん、本当に今日はありがとうございます。あとは私たちでやります」
「どういたしまして」
僕は祐天寺の駅にひとりで向かった。
家に帰ると、僕はベッドに倒れこんだ。
勘違いしていた自分がくやしかった。馬鹿みたいだった。週末は再び寝こむことになり、僕は一歩も自宅の外に出られなかった。
◆
日本経済という巨大な河の上に浮かんだ小舟に僕はひとりで乗っていた。河の流れに逆らう方向に、食欲と性欲をエネルギー源にして、沈没しそうな小舟をひとりで毎日漕いでいた。僕が小舟を必死に漕ぐ速さがなんとか河の流れの速さとちょうど同じぐらいだったので、同じ場所に留まっていることができた。毎日、同じ景色を眺めていた。
北品川と田町を往復する。寝ること、食べること、通勤、山のような書類仕事、そしてファッションヘルスで風俗嬢の手の中や口の中で射精する。僕のこうした活動のすべてが、わずかながら日本経済に貢献していた。掃き溜めのような人生を漂っていた。
恋愛というものはもはやどこか遠い世界の出来事だった。
非リアの僕は、週末はいつもひとりだ。
アパートから少し歩いたところにある品川の運河の近くのカフェで、ラテを飲みながら本を読むのがささやかな幸せだった。
かわいい店員がいたからだ。
ある日、僕はひとりで本を読んでいると、突然、その店員が話しかけてきた。
「サンプルの新しいコーヒーです。よかったらお試しください」
「ありがとうございます」
僕は小さなカップに入っていたコーヒーを、一口で飲み干した。
「美味しいですか?」
「すっ、すごく美味しいです」
結局、会話はそれで終わってしまった。
もっと別の言い方があって、そうしたら会話もはずんで、彼女と友だちになれたかもしれない、といろいろと想像してみた。しかし、そんな上手い話があるわけないだろう。僕は非モテだ。そんなことを考えながら、本を1冊読み終えた。
僕は、ひとり家に帰ることにした。
「ちょっと、待ってください」
店を出て、しばらく歩いていると、さっきの店員が追いかけてきた。
「はい」と僕はこたえる。
「これ、忘れてましたよ」
彼女はそう言うと、文庫本をひとつ差し出した。
僕の本だった。
「すいません。ありがとうございます」
「いえいえ」と言ってから彼女は本の表紙を見た。「アルジャーノンに花束を……。どんな話なんですか?」
僕はかわいい女の子と会話をするというめったにないシチュエーションに緊張しながら、説明をはじめた。
「知的障害の青年がパン屋でずっと働いていて」と僕が言うと、彼女は興味深そうに黒目がちの大きい瞳で僕のことを見つめてきた。さらに緊張してしまう。「その青年の知能は6歳児ぐらい、つまり子供の心のままのおとなしい性格の青年だったんだけど、知能を高める手術の実験台になるんだ」
彼女が僕の話を聞いている。
「それで、手術が成功して、頭がすごく良くなってしまうんだ」
「へえ」
「でも、そうなると、いままでに気付かなかったいろいろと悲しいことがわかって、主人公はいろいろと苦しむことになる」
「なんか、面白そうな話ですね」と彼女は言った。笑顔がまぶしすぎる。「わたし、もどらないと。また、コーヒーでも飲みに来てくださいね」
「は、はい」
と、僕はこたえた。
カフェに本を忘れて、それを彼女が届けてくれたことは、この数カ月の間で一番いい思い出だった。いや、もっと長い期間で一番の出来事だったかもしれない。
しかし、僕はどういうわけか、そのカフェには二度と訪れなかった。もう一度彼女に話しかけて、きびしい非モテの現実を突きつけられたら、この素敵な思い出も壊れてしまうと思ったからだ。それだったら、素敵な思い出のまま、彼女が僕の心の中にずっと住んでいてくれたほうがいい。
僕は、いつの間にか27歳になっていた。
◆
次回、「chapter1-5 変わりはじめる予感」は9/4更新予定
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