「ごめん、待った?」
麻衣子が約束の時間をきっかり20分遅れて到着した。黒のパンツに白いシャツ、そして黒のぴったりしたジャケットを羽織っていた。営業らしいかっこうだ。
僕はワインを飲みながら彼女の仕事の愚痴を聞いた。それから来週はもう11月で、すぐにクリスマスだという話になった。
「私、欲しいバッグがあるんだ」
「クリスマスのプレゼントで買ってあげるよ」僕は自信を持って答えた。
「でも、ちょっと高いよ」
「大丈夫、大丈夫。僕は弁理士になって3年目だし、ちょっとは稼ぐようになったし」
「でも……、30万円もするんだよ」
チキンをナイフで切っていた僕の右手が一瞬止まった。5万円ぐらいなら大丈夫だけど、それはちょっとキツイと思った。でも、男の意地も見栄もあったので、もっと安いのにして、とは言えない。僕は内心動揺しながら「がんばるよ」と答えた。
彼女は上機嫌になって、ぐびぐびとワインを飲んでいた。それを見て僕は、今夜は最後までいける、と自信を持った。
支払いはクレジットカードで済ませた。ふたりで1万円いかなかった。デート代は、2歳ばかり年上で彼女より稼いでいる僕がすべて払っている。
有楽町から品川まで山手線で移動し、品川で京急線の各駅停車に乗り換えてひとつ目の駅が北品川だ。
僕のアパートに着いたときは夜の11時をまわっていた。
僕たちは部屋の端っこに置いてあるベッドに座って、しばらく沈黙していた。
セックスするのは久しぶりだったので、ここまできて断られるんじゃないかと心配だったが、思い切って僕は彼女に抱きついた。僕はキスをして、服を脱がせた。自分も脱いだ。ブラジャーは彼女に自分で取ってもらった。ひと通りの前戯を済ませて、僕が入れようとすると、「ゴムつけて」と言われた。セックスを中断し、引き出しからコンドームをひとつ取り出し、それを装着した。挿入するとすぐにイッてしまった。
彼女はシャワーを浴びるために浴室に入っていった。
麻衣子は僕の家でシャワーを浴びるとき、自分のカバンと着替えをいつも浴室に持って行く。まるで治安の悪い外国のレストランでトイレに行くときみたいに。しかし、今日はたまたま、彼女は自分の携帯をフローリングの床に置き忘れていた。彼女がシャワーを浴びているときに、ひとつのメッセージが偶然、携帯の待受画面のポップアップに飛び出した。
[明日の23時なら空いてるから、うち来る?](あきひろさん)
このあきひろって男は誰だ? 麻衣子はこの男の家に泊まりにいくつもりなのか? ディナーもなしでいきなり家に呼び出すのか? 僕はジワッといやな汗をかきながら、猛烈なスピードで状況を飲み込もうとした。そして、このメッセージはどう楽観的に解釈しても、彼女が他の男と浮気をしているということを想像させるものだった。
すぐに追求すべきかどうか、僕は迷った。ここで追求して、僕たちの関係が完全に壊れてしまったら……。とりあえず解決策をよく考えよう。僕は、彼女の携帯を画面が下になるようにひっくり返して、元の場所に置いた。彼女がシャワーから出てきても、まるで何も気がついていないかのように他愛もないことを話した。
僕もシャワーを浴びると、麻衣子はすでにベッドの中で目をつむっていた。仕事で疲れていたのだろう。僕もベッドに入って寝たふりをしながら、彼女が完全に眠りに落ちるのを待った。小さなアパートの静かな闇の中で、僕はじっと考えた。
そして、麻衣子の携帯をなんとかして見る、という結論に達した。
彼女が深く眠っていることを確認して、僕はそっとベッドから起き上がり、それから彼女の携帯を静かに手に取った。彼女のiPhoneは、ロック解除に指紋認証を採用していた。彼女は右手の人差し指の指紋を登録している。
僕は彼女が起きないことを祈りながら、彼女の右手の人差し指を、ゆっくりと携帯のホームボタンにひっつけた。
あっさりと、ロックが解除された。
僕はLINEの会話履歴を開いた。
[あきひろさんに会いたくなっちゃった。]
[今日は仕事で忙しい]
[いつなら会ってくれるの?]
[明日の23時なら空いてるから、うち来る?]
[うん、行くね!]
さらに、前回、僕がデートのためにレストランを予約していたときに、彼女がドタキャンした理由もわかってしまった。
[今日は、はやく仕事終わった。ディナーする?]
[する!嬉しい!]
ご丁寧に、その後にマスコット同士がキスするスタンプまで続いている。
前々回のデートで、ディナーのあとに彼女が急に帰った理由も。
[会いたいけど、今夜空いてる?]
[空いてるよ! 嬉しい!]
今度はかわいいマスコットが抱き合うスタンプ。
あきひろという男のプロフィール写真を拡大して見ると、爽やかですごいイケメンだった。僕の劣等感を突き刺した。
麻衣子に対する怒りがこみ上げてきた。しかし、その怒りはすぐに悲しみに変わった。
僕は万が一のときに彼女の携帯をいつでも見れるように、こっそりと自分の指紋も登録しておいた。携帯を元の場所にそっと戻す。
少しずつ外が明るくなってきた。朝の5時半だ。僕は一睡もしていない。
麻衣子の寝顔をそっと見た。愛おしかった。やっぱり僕は彼女を愛している。そして、よく考えて、彼女の浮気を許そうと思った。
彼女が起きるまでに、朝ごはんを作ることにした。徹夜だったけど、不思議と気分はすっきりとしていた。許す、と決めたら心が軽くなったのだろう。僕はツナ缶とレタスでサラダを作って、それをベッドの脇の小さなテーブルに置いた。
「起きた?」僕が言うと、麻衣子は「んー、おはよう」と寝ぼけながら答えた。なんて、かわいいんだろう。
麻衣子は、起き上がって浴室に入っていった。歯を磨いて、化粧をしているのだろう。僕は彼女が浴室から戻ってくるころを見計らって、焼いておいたトーストをテーブルに並べた。彼女が椅子に腰掛けた。そして、僕は勇気を振り絞って、切り出した。
「あきひろって誰?」
「えっ、なんのこと?」麻衣子はまったく動じない。
「浮気してる?」
「そんなことするわけないじゃない」
「正直に言ってほしい」
「だから、なんなの?」
「じつは、携帯見ちゃったんだ」
麻衣子の顔が青ざめたように見えた。そして、すぐに僕を睨み返してきた。
「人の携帯見るなんて、サイテーだね。そんな卑怯な人だと思わなかった」
麻衣子はカバンを手に取り、僕の部屋から怒って出て行ってしまった。
疲れがどっと襲ってきた。どうやら許しを請わなくてはいけないのは、僕のほうになったようだ。なんてことだ。
◆
週末は何も喉を通らず、ずっとベッドで寝込んでいた。「やっぱり本当に愛しているのはわたなべ君だけ。あんな外見だけの軽い男なんてどうでもいいの。本当に反省したから許してください」と麻衣子が電話してくるのをずっと待っていた。
月曜日の朝9時半には、僕はなんとか出社した。というよりも、仕事でもしていないと気がおかしくなりそうだった。
僕には、真実を知ることにするのか、しないのかの選択肢があった。その真実には、彼女が浮気をしている、あるいは潔白という2通りの可能性があった。つまり、携帯を見る前の時点では、
(1)彼女は浮気をしていて僕はそれを知る
(2)彼女は浮気をしていなくて僕はそれを知る
(3)彼女は浮気をしていて僕はそれを知らない
(4)彼女は浮気をしていなくて僕はそれを知らない
という4通りの未来があったわけだ。
結果的には(3)だった状態が、僕が携帯を見るというアクションで(1)になり、その結果、麻衣子を失いかけている。僕が彼女の携帯を見なかったら、つまり、(3)か(4)の状態のままだったら、まだ僕たちは以前と変わらずつきあっていたことになる。結局のところ、僕は彼女が好きで好きでしょうがなく、彼女と別れたいなんてこれっぽっちも思っていない。だったら携帯なんて見るべきではなかったのだ。
世の中には、知らないほうが幸せなことはいくらでもある。
浮気をしたのは麻衣子で、それは世間の常識でいえば、彼女に非があるのかもしれないけど、こんな僕とたまにセックスをしてくれていただけで、僕はありがたいことだと思わなければいけなかったんだ。だって、いくら浮気をされたといっても、こうしてひとりぼっちでいるよりはずっとましなのだから。
次回、「chapter1-3 またひとりぼっち」は8/21更新予定
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