ずばり東京』から削り落とされた開高健の絶望 後編

『ずばり東京』評を書くにあたって、神奈川県茅ヶ崎市にある開高健記念館を訪れたfinalventさん。そこで気がついたのは、文庫版『ずばり東京』では18編が抜け落ちていたことでした。その、抜け落ちていたうちの1編「悲しき在日朝鮮人」を読んだfinalventさんは、ある事実に気が付きました。

『夏の闇』の名前の無い「女」

 前回書いたように、『夏の闇』を開高健の文学の最高傑作と推す人も多い。愛好者のために開高健記念館では408枚からなる直筆生原稿を製本した『夏の闇』も販売していた。同書の新著文庫版の解説を書いたC・W・ニコルは、「これ迄に私が読んだ日本の小説で最もすぐれたふたつの作品のうち、そのひとつが本書だということ、ここで私の言いたいのはこれに尽きる」と言っている。なお、もうひとつは開高の『輝ける闇』である。闇三部作とも呼ばれる内の二作である。

 『夏の闇』は不思議な物語である。異国の街に滞在する日本人中年男女の濃密な食欲と性欲と倦怠の描写が繰り返し繰り返し、延々と続く。ストーリーがないわけではない。ヴェトナム戦争を経験した男が、1970年代初頭のパリと思われる街で10年ぶりに「女」に再会する。物語では女はただ「女」と記され、名前は与えられない。「私」である「男」より2歳ほど年下であり、40歳に手が届こうとしているが女体にはまだハリがある。ドイツの大学に出す博士号論文が完成して製本までの休暇を使って男に会っている。男はパリの安宿で10年前の彼女を思い出す。

東京の郊外の駅の夜八時頃である。その日までに何度か女は食事や情事のあとで日本を捨てる決心をうちあけたのだが、暗示のようにほのめかすだけだった。決意としては語らなかったし、計画の細部も語らなかった。話そうにも話しようがなくて途方に暮れていたらしいのだと、あとになって外国から手紙がきて察しられた。
日本にいて専攻科目の学者になろうとしても学閥に出口を制せられていることや、翻訳者になろうとしても出版社が閥学者に制せられてフリー・ハンドを持たないでいること、考えぬいたあげくルポ・ライターになろうとして新聞社のグラフ雑誌ではたらいてみたがうまくのびられなかったこと、日本にいると私と顔をあわすたびに痛嘆し、罵倒したそれらのことについて女はもうひとことも手紙でふれようともせず、自身をうけ入れてくれる機関をようやく発見したことにもっぱら熱中し、おどけたり、雀躍したりしているように読まれた。

 大学を出たばかりの頃のその女は「新聞社のグラフ雑誌ではたらいて」、そして、男に会うたびに差別的な日本のことを「痛嘆し、罵倒した」という。

 パリでの再会の情事のあと男は、女に10年のやつれをみとめながらも、その肉体と肌を褒めて楽しげな話題にする。「膩」は「あぶら」と読む。「物」には「ぶつ」とルビがある。

「膚の肌理がいいのはアジア人だよ。男も女もね。ことに朝鮮女となったら絶品としかいいようがない。異様なばかりだ。ただ、ざんねんなのは、ちょっと膩に欠けるということだね。白人の女の膚は白いけれど、あれはチョークの白さだ。粗くて、脆くて、穴だらけなんだ。中身がすぐに漏れちゃう。だけど、したたかな膩があって、それを支えている。アジア人の膚に白人の膩があると、いいだろうね。きみはそれを体現しかかっているように見えるぞ」
「ペルシャの奴隷商人みたいなことをいうじゃない。知らないまに遊んだな。批評しているんでしょ。意地悪くジロジロ見てるんだ。テラコッタか李朝の壺でもみるように私のことを見てるんでしょう。”物”としてね。わかってるわよ」
「しかしきみは自信満々のようだよ」

 文学だけにゆるされる文章に甘えてこれが女の出自を暗示しているのではないかと考える。この小説のどこにも女が朝鮮人だという言明はないが、そこに在日朝鮮人を読み取ることができる。

 実際、彼女は在日朝鮮人だった。いや、私がここで奇妙な倒錯を演じてることは自覚している。『夏の闇』はフィクションであり、表向きはモデルもなく開高の想像力が生み出したものとされてきたからだ。だが、もういいだろう。彼のルポルタージュやノンフィクションに虚構が混じるように、彼のフィクションには実経験が混じっている。文学というのはそういう空間を生み出すものだ。

後に明かされた実在の「女」
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