31歳の地図—タモリ。をプロデュース 中編

タモリの足跡を辿る「タモリの地図」、今回はマンガ家・赤塚不二夫との関係を追います。すでにギャグマンガ家として活躍していた赤塚不二夫でさえ、虜にしてしまったタモリの芸。なんと、赤塚不二夫はタモリが東京で生活するために自分のマンションを貸し与えることにしました。そして始まった奇妙な居候生活。タモリと赤塚不二夫の関係はいったいどんなものだったのでしょうか。

終戦直後に生まれ古希を迎えた稀代の司会者の半生と、 敗戦から70年が経過した日本。
双方を重ね合わせることで、 あらためて戦後ニッポンの歩みを 検証・考察した、新感覚現代史!
まったくあたらしいタモリ本! タモリとは「日本の戦後」そのものだった!

タモリと戦後ニッポン(講談社現代新書)

居候と家主の逆転関係

タモリの芸を気に入った赤塚不二夫は、彼に東京・目白のマンションの一室を貸し与えた。家賃は1975年当時で17万円という高級マンションだった。

タモリは当初、赤塚が自分を誘ったのは男色の趣味があるからではないかと、貞操の危機を感じて、スナック「ジャックの豆の木」のママに相談したという。赤塚のことをよく知っているママの答えは、「冗談じゃないわよ、あの人はそんな人じゃない。そう言われるんだったら行けば大丈夫。恩着せるような人じゃ全然ないから」というものだった(『プレイボーイ・インタビュー セレクテッド』)。

結果的にこの居候時代は、《俺の人生の中で一番楽しかった、あの一年くらい》と後年タモリに語らしめることになる(『赤塚不二夫対談集 これでいいのだ。』)。当時まだレギュラー出演する番組はなかったので、時間はたっぷりあった。しかも赤塚からの待遇は、駆け出しの芸人に対しては破格のもので、タモリの生活は優雅そのものだった。

赤塚には小遣いももらっていた。月に一度は電話があり、「カネあるの?」と訊かれる。そこで「カネないよ」と答えると、「じゃあ取りに来い」と言われ、下落合のフジオ・プロダクションまで受け取りに行くのだ。それで一回につき3万円ほどもらっていたという。当時としてはかなり使いでのある額だった。

小遣いを受け取る際、今度は「酒あるか?」と訊かれ、「ない」と言えば、翌日には酒屋からハイネケンのビールが何ダースも届けられた。それも、部屋に友達を呼んで全部配ってしまうので、その日のうちになくなってしまう。「もう飲んじゃったの」と赤塚に驚かれても、タモリは「飲んじゃったあ」とあっけらかんとしていた。

部屋にはもちろん洋服ダンスもある。そこから赤塚の服を拝借して、何気なく着てみると、サイズがぴったりだった。赤塚から飲みに誘われると、それを着ていく。自分の服を着ていることに気づくや「それ、俺んだよねえ」と訊く赤塚。それに対してタモリは「そうだよ」と平然としながら答える。「それ、大切にしてたんだよなあ」と寂しそうに言われても、当然のごとく冷たく「あっそう」。帰りも赤塚はタクシーに、タモリは赤塚所有のベンツに乗ってと別々だった。下落合と目白はさほど距離も離れていないが、タモリは一度たりとも赤塚をベンツで送ったことはなかったという。ちなみにベンツは450SLCというスポーツカータイプで、タモリはこれを自由に乗り回した。あるとき工事現場にこの車で突っ込んでしまったことがあったが、赤塚からは一切怒られることはなかったとか。

赤塚はたまに部屋へ来ることもあった。それもまずタモリに電話をかけ、「いまから洋服を取りに行きたいけど、いいだろうか」とあらかじめ確認したうえでだった。部屋に来ても、「これとこれ、持ってっていいかなあ」と自分のものなのにいちいちタモリにうかがいを立てる。用事が済んで一服するときも、「タバコ吸おうかなあ」「ちょっと一杯飲もうかなあ」などと遠回しに許しを求め、「どうぞ」と言われてやっと飲み始める。そんなふうに赤塚は終始恐縮したまま部屋でしばらくすごすと、「そろそろ帰るわ」と一人タクシーで仕事場に戻っていくのだった。これではどちらが家主なのかわからない。

来宅した赤塚はまた、食べ物がないだろうと、買ってきた食料品を冷蔵庫いっぱいに入れてから帰っていったという。そんな家主にタモリが礼を言うことはなかった。タモリには、《お前が俺を見込んだんだから仕方ない。お前は自分の度量がそれだけあって、それなりに経済的にやっていけるんだから、なかったらやんなきゃいい》という、居候道というか居候哲学みたいなものがあったからだ(『赤塚不二夫対談集 これでいいのだ。』)。

じつは当初、タモリは赤塚がほかにマンションを持っていて、そこに住んでいるものとばかり思っていた。だが、実際には赤塚は帰るところがないので、仕事場に寝泊まりしていた。それを知ったとき、さすがのタモリにもグッとこみあげるものがあったが、ここで引け目を感じては居候道に反すると思い、堪えたという。赤塚も赤塚で、「ジャックの豆の木」のママの言葉どおり、恩に着せるような人間では全然なかった。むしろ堂々と居候しているのがいい、とタモリに惚れこんでいた。

あれがなかったら、今のタモリはないんだよ。普通にペコペコするような奴だったら、こうはなってなかった。(中略)人の服着てな、十七万のマンション住んで、平気でベンツに乗って走り回ってね。そういうのができたってことで、この人の今があるんだよ。
(前掲書)

仲間を呼んでラジオドラマをつくる
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この連載がついに書籍化!「森田一義」はいかにして「タモリ」になったのか。関係者への追加取材や大幅加筆でその足跡をさらに浮き彫りにします!

この連載について

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タモリの地図—森田一義と歩く戦後史

近藤正高

2014年3月31日、『笑っていいとも!』が32年間の歴史に幕を下ろしました。約32年間、毎日テレビに出続け今や国民的タレントになったタモリ。そんな「昼の顔」だけでなく、アングラ芸で身を起こし、深夜番組『タモリ倶楽部』で披露する「夜の...もっと読む

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コメント

nephroticsyndro 好きな芸能人はタモリ。 昔、いいとも録画するくらい好きでしたw いつまでも元気で頑張ってほしいです。頑張らないよ、と言いそうだけど。 https://t.co/tNkaEKdqqZ 1年以上前 replyretweetfavorite

eikoh_y あれがなかったら、今の 約3年前 replyretweetfavorite

matomotei 1件のコメント http://t.co/IrToWa2k5V 約4年前 replyretweetfavorite

matomotei 1件のコメント http://t.co/IrToWa2k5V 約4年前 replyretweetfavorite