ずばり東京』から削り落とされた開高健の絶望 前編

前回まで掲載した開高健『ずばり東京』評を書くにあたって、神奈川県茅ヶ崎市にある開高健記念館を訪れたfinalventさん。そこで偶然見つけてしまったのは、もうひとつの『ずばり東京』でした。初出から文庫化するときに欠けていた18編。その中の1編に描かれていたのは、開高健のある秘めた思いでした。

開高健記念館で気がついた

 今では開高健記念館となっている、彼が晩年暮らした茅ヶ崎の家を訪問した。光文社文庫『ずばり東京』の巻末にその案内があったこともあるが、夏の初めの海の臭いの混じる風のなかに痩せて精悍な眼で虚空を睨むような姿が見えるような気がしたからだ。

 開高が太りだしたのは『ずばり東京』を書いたころからだったらしい。不摂生な生活のむくいといえばそれまでだが、おそらく離人症のような世界との乖離感と憂鬱も関係していただろう。文学的な乾きも。彼は文庫版『ずばり東京』の「前白―悪酔の日々―」にあるように「一日にトリスなら二本、角瓶なら一本を服用して」いた。「泥みたいな日々」だった。

 昭和32年(1957年)、27歳のとき「裸の王様」で芥川賞(第38回)を受賞した。大江健三郎の「死者の奢り」を下しての受賞だった。傍からは順調に純文学の道を進んでいるようにも見えながら、「たちまち壁にぶつか」ったと開高は言う。酒にも浸った。

 転機は『ずばり東京』の前段、昭和38年のルポルタージュ『日本人の遊び場』(光文社文庫)だった。自身の肉体を通して外の世界と多様な人々と関わりながら、新しい文学を切り開いた。それがヴェトナム戦争体験を経て、闇三部作の独自の文学に結実した。

だが書けずに煩悶していたという、初期の痩せた開高健像になにか納得できないものを私は感じて、彼に会いに行こうと思った。もう死んでいるとしても。

 茅ヶ崎駅を降り、サザンオールスターズの歌でも知られるラチエン通りを海岸に向かって歩くと開高健記念館に着く。白い小さなチャペルのような邸宅の玄関を開けると天井の高い洋間がある。訪問客は少なかった。

 開高が死んだのは1989年(平成元年)の12月9日。食道腫瘍で肺炎を併発して亡くなった。58歳だった。もうすぐ57歳になる今の私に近い年齢だと改めて知り、呆然とする。

 当初、食道狭窄で茅ヶ崎市の病院に入院したのはその年の3月。その時点で手遅れだったようだが、死期近くまで本人告知はなかったらしい。その以前から長期に身体は蝕まれていた。52歳ごろから座って居られなくなるほどの疼痛があった。没年に刊行された1989年『国境の南 オーパ、オーパ!!モンゴル・中国篇』(集英社)より。

 ふつう私は小説家として暮らしている。ここ五年ほどは湘南海岸の茅ヶ崎市である。海岸から三百メートルか四百メートルほどのところでひっそりと起居している。月曜日と木曜日の夕方になると二キロほど離れたところにある水泳教室へ行くために外出するが、それ以外はほとんど家にたれこめたきりである。水泳教室へいくのはバック・ペイン(背の疼痛)という持病のためで、これは最近七年のうちに体に棲みつくようになり、右の背中の肩甲骨の周辺に主として出没する。ひどいときには右半身が板のように張ったみたいになり、腕をあげることもできないし、息をつくこともできない。

 記念館では奇しくも『ずばり東京』をやっていた。彼と彼の娘と彼の妻の遺体が置かれたこともあるだろう居間で、50年前の連載当時の週刊誌の切り抜きを手にとって読む。開高健という名前がなければどこかのライターが書いたようにも思えるが、読み進むとやはり彼にしか書けない文章だと納得する。ショーケースのようなガラスの向こうには、当時の週刊朝日や写真が掲げられていて、過ぎ去った年月が感じられる。

 壁には連載時の『ずばり東京』の表題一覧のパネルもあり、詩のように読もうとしたとたん違和感を覚える。カバンのなかの文庫本を取り出して目次を開き、章題を一つひとつ指で指して照合してみると、違う。記念館の人にお願いして、『ずばり東京』の初版本上下巻の目次を見せてもらうと、やはり違う。ご厚意に甘えて初版本の目次部分をコピーしていただき、翌日、開高健全集で確かめてみると、初出58編のうち、光文社文庫に収録されていない編が18もあることがわかった。三分の一がないと言ってよい。うかつだった。彼はこれを私に知らせたかったのかとふと思った。

欠けた18編はどこで消えたのか

 2007年刊行の『ずばり東京』光文社文庫は、巻末を見ると、1982年刊行の文春文庫版に「求人、当方宿舎完備」と「”マンション族”の素顔」の二編を加えたとある。逆に言えば、52歳の開高健が文庫版として「前白―悪酔の日々―」を加えたときにはこの二編もなかった。いったいどういう趣向から、これほど多数の章が削除されたのだろうか。

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