一故人

エドアルド・シェワルナゼ—チェルノブイリと「反体制映画」

今回の「一故人」は、エドアルド・シェワルナゼを取り上げます。斜陽の社会主義国家・ソ連において、ゴルバチョフの右腕として活躍。ソ連の崩壊後は、母国のグルジアで大統領を務めた人物です。情報公開に取り組み、ナショナリズムや民族問題に翻弄された彼のキャリアは、現代の政治的問題に示唆を与えているように思われます。


母国での事件を“コンプレックス”に

2013年11月、旧ソ連諸国のひとつウクライナでは、ロシア寄りのヤヌコビッチ政権が欧州連合(EU)への加盟に向けた連合協定を見送った。これに対し親欧米派の市民は大規模な反政府デモを展開する。デモは年を越えてなおも激しさを増し、ついに2014年2月22日、ヤヌコビッチ政権は崩壊、5月の大統領選挙では欧米寄りのポロシェンコが当選した。

この間、ウクライナ東部では親ロシア派が武力を行使して一方的に独立を宣言、またウクライナ領だったクリミアでは住民投票が実施され、その結果を受けてロシアのプーチン大統領はクリミア編入を宣言した。欧米諸国は、力による現状変更は認められないと反発し、アメリカなど各国がロシアに対し制裁措置に踏み切っている。

1991年のソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)の解体前後に連邦から独立した国々は、ウクライナにかぎらずその多くがいま、ロシアと欧米のパワーゲームのなかで揺れ動いている。もっともソ連時代でも、連邦内の自治政府はけっして融和的であったわけではなく、むしろ中央政権が強い力で押さえながらかろうじて統一を保っていたといってよい。

黒海と西南アジアに面するグルジア(1995年以前の正式な国名はグルジア共和国)もまた、ソ連共産党に押さえつけられてきた歴史を持つ。ソ連の建国者であるレーニンの死後、権力を継いだスターリンはグルジア出身ながら、母国の自立を求める民族運動に対し徹底的な弾圧を加えた。

そのスターリンも死後、ソ連の第一書記となったフルシチョフから激しく批判される。1956年のことだ。フルシチョフはスターリンへの個人崇拝を批判するあまり、グルジア人の自尊心を傷つけるようなことまで言い出した。これに激怒したグルジアの学生たちは、同年3月、同国の首都・トビリシの共産党中央委員会の建物を占拠するなど大規模なデモを行なったが、出動した軍によって鎮圧された。公式資料では、このとき22人が死亡、数十人が負傷したとされる。

市民の運動がソ連軍の介入によって鎮圧されるということは、その後も1956年10月のハンガリー事件、さらに1968年8月のチェコ事件と、東欧諸国でたびたび繰り返された。《五〇年代と六〇年代に東欧を揺るがせた一連の事件は、いつも私には五六年三月にトビリシで起きた事態の、鏡の中に映る像に思えた。われわれの世代は、政治の手段及び原則としての暴力の行使は、認めてはならない、という強迫観念ともいうべき「一九五六年コンプレックス」をもった》とは、グルジア出身の政治家、エドアルド・シェワルナゼ(2014年7月7日没、86歳)の著書『希望』での一文だ。シェワルナゼがソ連末期のゴルバチョフ政権の外務大臣として、東欧諸国との関係改善に尽力したのには、そんな母国の歴史が深く影を落としている。

ゴルバチョフとの出会い

シェワルナゼは、1928年にグルジアの農村に生まれた。その10年前の1918年、グルジアは、それまで同国を支配してきた帝政ロシアの崩壊にともない独立を宣言していた。以来、西欧型のゆるやかな議会制民主主義を志向するメンシェビキ(ロシア社会民主労働党の右派)が政権を担っていたが、1921年、ソ連赤軍によってグルジアの首都トビリシが占拠されてしまう。このときメンシェビキは抵抗もむなしく敗北し、グルジアは連邦の支配下に入った。この戦いをめぐっては、その後もグルジアの人々のあいだで論争が繰り返される。シェワルナゼの家でも、教師だった父親はメンシェビキの失敗を批判したが、母の兄弟たちはソ連に批判的だった。そんな家族のなかで育っただけに、シェワルナゼは自然と政治に関心を抱くようになる。

しかし両親はじめ親族がシェワルナゼに望んだのは、医者になることだった。これに応じて彼はトビリシの医科専門学校に入学する。優秀な成績を収めたため医科大学へは入試が免除され、医専の校長からも強く進学を勧められたものの、シェワルナゼは結局これを断っている。彼はやはり政治の世界で、社会の病気を治すことにこそ使命感を抱いていたからだ。当時のソ連でそれを実現できる場は、共産党とコムソモール(共産主義青年同盟)しかなかった。20歳だった1948年には共産党に入党し、医専卒業後は、コムソモールの地区委員会で組織指導員の職に就いた。

先述の1956年のトビリシ事件当時、コムソモールの地方支部の職員だったシェワルナゼは、会議の席上でフルシチョフ政権による弾圧を批判し、聴衆の支持を集めた。それからまもなくして、グルジアのコムソモール中央委員会書記に選ばれると、モスクワをはじめ各都市へも頻繁に出張し、中央や地方のコムソモール指導者たちと知り合うようになる。当時、ロシアのスタブロポリ地方委員会第一書記をしていたミハイル・ゴルバチョフと出会ったのも、このころのことだ。3歳下のゴルバチョフとは仕事も似ていたうえ、スタブロポリはグルジアのすぐ北隣に位置することもあって、2人の関係は「近所づきあい」のごとく公私にわたり深まっていく。

1965年、シェワルナゼはグルジア共和国の内務大臣に就任、在任中は汚職の摘発に力を注ぐ。そのために配下の係官を、すべての高官とその家族に張りつかせ、秘密裡に調べを進めた。そうやって慎重に準備をしながらエリートの乱脈ぶりを摘発、ついには当時のグルジア共産党のトップである第一書記・ムジャワナゼの悪行を中央政府に報告するにいたる。この功績から1972年、シェワルナゼは新たな第一書記に抜擢された。

共和国のリーダーとして、シェワルナゼはさまざまな新しい制度を導入した。それらは、後年のゴルバチョフ政権におけるペレストロイカ(立て直し)を先取りするものだったともいえる。このころにはまた、ゴルバチョフと黒海沿岸のピッツンダ岬近くにある公園の道をよく散歩したという。1979年12月にソ連軍がアフガニスタンに侵攻したときにも、2人はすぐに会って意見を交わした。この事件について「これは取り返しのつかない誤りであり、わが国にとってこのツケは大きい」という評価で、両者の意見は一致する。

《われわれには、外交政策を変え、外国に対ソ不信感を与えている権力構成とイデオロギー上の数々の「指針」を取り除かなければ、信頼を醸成することはできないことが分かっていた》(シェワルナゼ『希望』

1970年代はソ連とアメリカが歩み寄り、緊張緩和(デタント)が図られたものの、それもソ連のアフガン侵攻によって中断される。両大国は新冷戦とも呼ばれる状況のなか1980年代を迎えた。そこへ来て、ソ連の新たなリーダーとして登場したのがゴルバチョフであった。

異例づくめの外相への抜擢

1985年3月、チェルネンコ書記長の死去を受けて、当時54歳のゴルバチョフはその後任に抜擢された。外務大臣はグロムイコが第一副首相の座とあわせて留任したが、同年7月に国家元首格のソ連最高会議幹部会議長に選出され、28年務めた外相のポストから退く。その後任に選ばれたのがシェワルナゼだが、この人選は異例づくめであった。

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

suchi https://t.co/9hniPpxRs3 cakes.muの近藤正高さんのシュワルナゼさんの文章が面白かった。今週はこれ(と汁なし担々麺レシピ)だけで150円分の価値があるくらい。 4年弱前 replyretweetfavorite