30歳の地図—博多の怪人、新宿に現る 後編

タモリとともに戦後史を振り返る近藤正高さんの連載です。福岡で山下洋輔トリオに発掘され、"おもちゃ"として大事にされていたタモリは、大学時代以来ついに東京に上京します。東京で会う人会う人を次々にトリコにしていったタモリ。そこには、東京でのタモリを支えることになる、数々の著名人との出会いがありました。

終戦直後に生まれ古希を迎えた稀代の司会者の半生と、 敗戦から70年が経過した日本。
双方を重ね合わせることで、 あらためて戦後ニッポンの歩みを 検証・考察した、新感覚現代史!
まったくあたらしいタモリ本! タモリとは「日本の戦後」そのものだった!

タモリと戦後ニッポン(講談社現代新書)

『氷の世界』と山下洋輔トリオのドイツ公演

井上陽水のアルバム『氷の世界』といえば、1973年12月にリリースされ、日本のレコード史上初の100万枚のセールスを記録したことで知られる。その収録曲の一つ「帰れない二人」は陽水と忌野清志郎の共作だ。当時、RCサクセションを率いて活動していた清志郎だが、仕事はあまりなく、このとき転がりこんだ印税でしばらく食べていたという話がある。

『氷の世界』の大ヒットによって思わぬ恩恵に浴した人物がもう一人いる。マンガ家で、赤塚不二夫のブレーンやマネジメントも担当していた長谷邦夫だ。長谷は『氷の世界』に収録された「桜三月散歩道」という曲を作詞していた。この曲はもともと1973年に、赤塚不二夫責任編集による雑誌『まんがNo.1』の付録のフォノシート(薄いレコード盤)用に陽水に依頼して制作されたものである。それが放送作家の喰始たべはじめの推薦により『氷の世界』に再アレンジのうえ収録された。長谷にとってはそれだけでも思いがけないことだったが、レコードは売れに売れ、1974年度の「日本作詩大賞」まで受賞してしまう。

しかしマンガ家が作詞印税で意図せずして収入を得たことに、やや恥ずかしさを感じた長谷は、この収入を何か遊びに使ってしまおうと考えた。そこへ来て、山下洋輔トリオが、マネージャーをともなわずにヨーロッパへ半月ほど演奏旅行に出るという話を聞きつける。

長谷が初めて山下と会ったのは、山下トリオの最初のアルバムをつくるにあたり、ジャケットに赤塚キャラの蛙「べし」を使いたいと、山下自らフジオ・プロダクションを訪ねてきたときだった。それに承諾して約1週間後、長谷は出版社からの帰途、たまたま前を通りかかったジャズ喫茶で山下がその日ライブを行なうことを知り、のぞいてみた。そこで山下の演奏に強い衝撃を受け、すっかり心酔してしまう。以来、当時トリオが新宿のジャズクラブ「ピットイン」で毎週月曜に始めたばかりだったライブにも足を運ぶようになり、7年半無欠席で通した。それだけに、彼が本職外で得た収入を、トリオの追っかけに使うのはごく自然のなりゆきであった。

山下の快諾のうえ、長谷はトリオとともに、ドイツのドナウエッシンゲンとベルリンでの二大フェスティバルをまわる。宿泊先では森山威男と相部屋だった。タモリとの初対面時もそうだったが、当時の山下トリオは旅行先では相部屋が当たり前で、旅費・宿泊費もメンバーが平等に負担していた。このときマネージャーが同行しなかったのも、日程が短く公演も2回だけだったので、無駄を省くためだ。ちなみに当時の山下トリオのマネージャー・柏原卓こそ、タモリの東京デビューの舞台となるスナック「ジャックの豆の木」のオーナーであり、店のママは彼の元妻だった。

伝説の店「ジャックの豆の木」の履歴

山下洋輔などの文章では「A子」の名で登場する「ジャックの豆の木」のママ、柏原テルがこの店を開いたのは1965年のこと。それまで大久保で「ココ」というバー(昼間はトンカツ屋)をやっていたが、常連客の勧めもあって歌舞伎町に進出する。店を構えたのは、靖国通りから現在の四季の路(新宿遊歩道公園)を新宿六丁目へと抜けるあたりの場所だ。四季の路はもともと都電の専用軌道敷(1970年廃止)で、新宿六丁目交差点付近には新田裏という停留所があった。

開店初期の「ジャックの豆の木」には演劇や映画関係者の出入りが多く、山下トリオも当時からの常連客だった。このころ店でアルバイトしていた男性は、《山下トリオの中村誠一さんが何を思ったかパンツ一枚で逆立ちをはじめて、ひっくりかえったり、三上寛がギターをかきならして絶叫したり》と証言している(橋本克彦『欲望の迷宮』)。青森出身のフォークシンガーの三上寛ものちにタモリと親交を持つことになる一人だ。タモリの十八番となる寺山修司のモノマネは、もともとは三上の持ちネタである。

議論好きのママは、客同士が映画論などで大議論になると割って入って、いつのまにか一方をやっつけたりすることもあったという。強烈な個性を持った客たちが出入りし、いつも店はにぎやかだった。ただ連日連夜、酔っぱらいを相手にしているうちにママも疲れが来たのだろう、少し体を壊してしまう。そこで「ジャックの豆の木」は場所を移して、ほかのスタッフに任せることにした。

1972年、新宿コマ劇場の裏に移転した第二次「ジャックの豆の木」は、それまでの店より3分の1ほどの広さとなり、客と客とが接近するますます濃密な空間となった。それゆえ常連から「小さなジャック」とも呼ばれた。一方、ママは上野御徒町近くに喫茶店を開く。もっとも、数年後、「ジャック」にタモリを呼びたいとリクエストしたのはほかならぬママだそうだから、いわばこれは緊急退避的にいったん新宿を離れたにすぎないのだろう。

先に書いたように、当時の山下トリオは毎週、新宿の「ピットイン」に出演しており、それを聴きに来た客が、そのままメンバーと一緒に歌舞伎町の「ジャックの豆の木」に流れるということも起きていた。そういうこともあって、第二次「ジャック」では、山下トリオが常連客のあいだでますます中心的な存在となっていく。そこでは夜な夜な、有名・無名を問わず才気あふれる人たちが、互いに芸を披露したり言葉遊び的なものに興じたりと、おおいに盛り上がっていた。

タモリが新宿にやって来た!
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この連載について

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タモリの地図—森田一義と歩く戦後史

近藤正高

2014年3月31日、『笑っていいとも!』が32年間の歴史に幕を下ろしました。約32年間、毎日テレビに出続け今や国民的タレントになったタモリ。そんな「昼の顔」だけでなく、アングラ芸で身を起こし、深夜番組『タモリ倶楽部』で披露する「夜の...もっと読む

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コメント

donkou ケイクス連載更新されました。赤塚不二夫とタモリの出会いをめぐる秘話もあるよ。 3年以上前 replyretweetfavorite

kiq 参考文献リストにある山下洋輔や筒井康隆の本読んでおもしろがってた中学生だった 3年以上前 replyretweetfavorite