そもそも何のために努力をするのか?
今から16年前の1998年4月、(当時の)国立小児病院の桜が満開で、桜吹雪が舞い散る中、一つの小さな、か弱い命が消えた瞬間でした。
努力に何の意味があるのか……。
このときほど、努力することの意味について考えさせられたことはありませんでした。
私の最初の長男は、極度の重度障がい児としてこの世に生まれてきました。
彼が誕生してから3年10 カ月の間、彼が健常者になることはかなわないとしても、せめて、病院から出て外泊ができ、ときには親子で過ごせる日が来てほしいというささやかな希望を抱きながら、妻が中心となって、私たちはあらゆる挑戦をしてきました。
でも、結局、奇跡は起こらなかったのです。
何一つ、願いはかないませんでした。
周りの人から見れば、私たちの努力は、すべて水泡に帰したのでした。
そもそも医学的・客観的に見れば、彼が私たちに意識を持って接してくれるようになることなど、ほぼ100%あり得ないことは、医師の説明や自分自身で調べた文献からも明らかでした。
にもかかわらず私たちは前向きに、そして挑戦し続けたのですが、このことに、どれだけの意味があったのでしょうか?
弁護士としての活動の傍ら、写真家としても活躍中。書籍に掲載している著者が撮影した写真を掲載します。
成果がほぼ期待できないことに対して努力を続けることは、今はやりのグローバル・エリート流のタイムマネジメントから見れば、「究極の時間の無駄遣い」でしかありません。
意識もなく、昏睡している状態に近い彼に毎日、面会に行くことに、どんな意味があったのでしょうか?
かりに「人生に無駄なことなど一つもない」としても、どうしてこんな理不尽で過酷なことに、息子や私たちが耐え続けなければならないのでしょう。
「どうして、私たちがこんな目に……」
彼が少しでもよくなるために、「何でもやる」と思う一方で、私は、このような葛藤を抱えていました。20年近く前のことです。しかし、20年経った今だからこそ、言えることがあります。それは、
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