超一流の学者はその研究以外でもおもしろいものだ。なかでも物理学者ファインマンはずば抜けておもしろい。その破天荒とも言える数々のエピソードは1985年に出版された『ご冗談でしょう、ファインマンさん』(上下巻・岩波現代文庫)にまとめられ、読み継がれている。しかし日本で彼が有名になったのはそれ以前のことだ。
東京オリンピックの翌年、1965年(昭和40年)、朝永振一郎が日本人として二番目のノーベル賞の栄誉に輝いた。湯川秀樹が日本人初の受賞をしたのは1949年なので16年ものブランクがあったが、またも物理学賞という科学の分野だったので、技術立国を目指す当時の日本は喜びに沸いた。8歳の科学少年だった私も華やぐ空気を覚えている。このノーベル賞を朝永と共同受賞したのがリチャード・P・ファインマン(Richard Phillips Feynman)である。偉い物理学者だということで日本の社会にその名が知られるようになった。
さらにさかのぼる。戦後、時を置かず国際的なレベルに達した日本の物理学会では、すでにファインマンは天才だが変人だとしてよく知られた伝説の人だった。そのようすも自伝的な逸話集とも言える本書に描かれている。
日本が独立した翌年の1953年のこと。日本で開催された国際理論物理学会議にファインマンは出席した。彼は本書で「今度の会議は戦後日本の再起を告げる息吹のようなものだったから、みんなで行ってその立ち上がりを助けたいという気持ちが盛り上がっていた」と語っている。そうでなくても日本を神秘的な国だと思っていた彼は用意万端、日本語まで勉強していた。だが、日本に着いてホテルの会食のメニューを見ると、残念、英語である。
せっかくあれだけ苦労して日本語を勉強したというのに、これでは気がすまない。そこで夕食も終わりに近づいた頃、僕はウェイトレスに「コーヒーヲモッテキテクダサイ」と日本語で言ってみた。すると彼女はおじぎをして出て行った。
僕の友だちのマルシャックは聞き流していたが、はっと気がついて、「おい何だ、今のは?」
「僕は日本語をしゃべるんだぞ」と答えると、
「ええ、ほんとうか?君はいつもその手で人をかつぐんだからな。」
友人の反応は正しい。なぜならファインマンはいつも冗談で人をかついでいたからだ。