終戦直後に生まれ古希を迎えた稀代の司会者の半生と、 敗戦から70年が経過した日本。
双方を重ね合わせることで、 あらためて戦後ニッポンの歩みを 検証・考察した、新感覚現代史!
まったくあたらしいタモリ本! タモリとは「日本の戦後」そのものだった!
タモリと戦後ニッポン(講談社現代新書)
デタラメ外国語を相手の3倍の速さで返す
1972年1月、グアム島のジャングルに潜伏し続けていた旧日本兵・横井庄一が、終戦から27年ぶりに発見され、繁栄を謳歌する日本国民に衝撃を与えた。のちに横井はタモリの格好のネタとなり、レコードアルバム『タモリ3 戦後日本歌謡史』(1981年)にも「私はあの、愛知県の出身で、エビフライっていうものに憧れていたので、川へエビをとりにいって、見つかってしまった」というモノマネが収録されている。
当のタモリがジャズ・ピアニストの山下洋輔らによって“発見”されたのも、同じく1972年のことだとされる(前年の71年とする説もあるが)。それについては山下たちによってこれまで何度となく語られてきた。ここではまず、山下がタモリとの遭遇を記した最初期の文献の一つ、『ピアノ弾きよじれ旅』(1977年)をもとに再現してみよう。
演奏旅行で福岡を訪れた山下洋輔と中村誠一(テナーサックス)・森山威男(ドラムス)のトリオは、公演が終わったあと、真夜中すぎまで宿泊先のホテルの一室で大騒ぎをしていた。やがて山下がベッドに正座しながら、デタラメな長唄を歌い出す。それにあわせて浴衣姿の中村が籐椅子を
男はときどきヨォーなどと言いながら中村のそばまでやってくると、彼の頭から籐椅子を奪い取り、自分がかぶって踊り続けた。我に返った中村は、踊りをやめ、ものすごい勢いでまくしたてる。それも日本語ではなく、得意としていたデタラメな朝鮮語で。だが信じがたいことに、男は中村の3倍の勢いで同じ言葉を返してくるではないか。びっくりした中村はそれならと中国語に切り換えた。しかし相手はその5倍の速さでついてくる。
その後もドイツ、イタリア、フランス、イギリス、アメリカと各国語(むろんすべてデタラメの)でやり合ったものの、ますます男の優位になるばかりであった。ついには男が急にアフリカ原住民の顔となってスワヒリ語をしゃべり出す。さっきから笑いが止まらず悶絶寸前だった山下は、それを見てついにベッドから転がり落ちたそうな。
中村はいさぎよく敗北を認めた。そして思い出したように「ところであなたは誰ですか?」と聞くと、男は「森田です」と初めて名乗ったのだという。山下は「全冷中顛末記」(『ピアノ弾き翔んだ』1978年所収)というエッセイで、この瞬間をもう少しくわしく描写している。
朝も白々と明けた頃、この黒ブチ眼鏡に白ワイシャツ、黒ズボンにズック靴の男は、急に真面目な顔になり、ではと言って帰ろうとした。ドアへと歩いて行くその後姿に向って、最早ユカタもはだけ、パンツもずり落ちている中村が呼びかけた。/「失礼ですが、あなたのお名前は何とおっしゃるのですか」男は立ち止まり、ドアに手をかけたまま、こちらを向いた。/「モリタです」中村は走り寄り、二人は抱き合い、再会をちかった。
当の中村が最近インタビューで語ったところによれば、このとき頭にかぶったのは底の抜けた籐椅子ではなく籐のゴミ箱で、最初から虚無僧の真似をしていたという。子供の頃、講談本が好きだった中村は、そこに登場する虚無僧がお気に入りだったらしい。そんな恰好で踊っていたところ、10センチくらい開いていたドアから、タモリがいきなり歌いながら入ってきたのだった。中村はその瞬間を次のように振り返っている。
怖い感じはしなかったですね。入ってきたときに一瞬、誰かな? と思っただけ。そのままふたりで踊って。バッチリですよ、バッチリ完成されてたと思いますよ。音楽でいきなりジャムセッションしてうまくいったのと一緒で、感覚的にはジャズ演ってるのとあまり変わらない。
(『タモリ読本』2014年)
中村いわく、デタラメな朝鮮語は、踊りを終えてから「おまえは誰だ?」と聞こうとしたものの言えなくて、代わりに口を衝いて出てきたのだという。それに対しタモリはもっと流暢な言葉で返したのち、ようやく「タモリです」と名乗った。本名ではなく、学生時代から呼ばれていた名前を口にしたというのが、山下の証言とは異なる。
また中村によると、タモリは明け方になって帰る際、「明日はどこへ行くんでしょうか?」と訊ねてきたという。熊本大学の学園祭に呼ばれて行くと答えたところ、彼が「じゃあ、汽車をキャンセルしてぼくの車で行きましょう」と言い出し、中村たちはタモリの運転で福岡から熊本へ移動することになった。結局、タモリは山下トリオとその後3日間一緒にすごしたが、4日目にはさすがに仕事があると帰っていったそうだ(『タモリ読本』)。
このあたりも山下が書いているのと食い違う。タモリ自身も山下の記述と同様に、トリオと初めて会った際にはやはり、夜明けに「こりゃいかん、会社があるんだ」と帰ろうとしたところ、名前を聞かれたので「私は森田と申します」と言い残して帰ったと語っている(『赤塚不二夫対談集 これでいいのだ。』2000年)。中村がタモリと熊本に行ったというのは、ひょっとするとべつのときの話なのかもしれない。