殉教の思考実験が問うもの
星新一の初期作品を丹念に追っていくと、この作家が抱えていた奇妙な悲劇性が形を取り始める。先に触れなかったが、作品「セキストラ」と「ボッコちゃん」の間に書かれたのが、『ようこそ地球さん』の最終に置かれている作品「殉教」だった。「ボッコちゃん」が星新一のショートショート開眼の第一作であるなら、「セキストラ」と「殉教」はまだショートショートではなかったと言ってよい。
「殉教」は私が星新一の作品群のなかでもっとも愛する作品である。作品の構成は前作「セキストラ」に似ている。読者は、ある超越的な装置について思考実験を行うことになる。
着想は簡素である。ある科学者が、霊界・死後の世界と通信できる装置を発明した。そして死後の世界と通信してみたら、そこはとても素晴らしいところであることがわかったというのである。
キリスト教的な世界観では天国以外に地獄や煉獄もあるが、浄土教では阿弥陀仏を信じるならすべて浄土に救われるというから、この装置は浄土教の思想に近い。話は、まさに浄土教の狂信者たちが「とく死なばや」「欣求浄土」と死を急いだような展開になる。
「殉教」で面白いのは、最初はその機械を疑っていても、死後の世界にいる愛する人との会話で、死後の世界を確信して死んでいく人々の描写である。また、死を実演してその装置から語りかける状況描写も面白い。ここで思考実験としてまず問われているのは、私たちは何によって死後世界の実在性の確信を得るのかということだ。
星新一はこれを恐ろしく質素に描き切っている。それは、私たちは私たちが愛する人の言葉を真理として受け入れることによってなのだ。死後の世界にいる私たちの愛する人の声が確実に聞こえるなら、人はそれを信じるだろうということだ。ようするに死後の世界の確実性は、私たちの愛情の構図(愛情を信じること)のなかに仕組まれているということを暴露して見せる。死後の世界は存在しないという信念や科学知識は、その愛情の構図のなかで無残に崩れるだろう。
「殉教」の物語はかくして、死者の山を全世界に築いていくことになるが、その簡素に描かれた光景のイマジネーションがまたすばらしい。人々が生の意味を放棄して死体となり、死体が世界を覆い尽くされている壮絶な光景である。それが若い読者の無意識に与える意味はなんだろうか?
星新一が恐ろしい作家だと、初めて読んで中学生の私は思った。今再読してもそう思うのは、その壮絶な光景が示すものは、ようするに、死体とはゴミだということだ。愛情に確信できず生き残っている人間にとっては、死者の山はゴミでしかない。生きることはそのゴミを片付けることから始まる。
ではそれまでの生とは何か?
人間というものは、なんのために生きているのだろう。この答が出たのだった。つまり、死の恐怖だけで支えられていたらしい。文明の進歩は、未知にもとづく恐怖をつぎつぎに消し、死こそ最後に残された、ただ一つの、最大の恐怖だった。
人生の意味はなんなのだろうか。意味はあるのか。そうした問いも可能だが、実際のところ、人間が生きて、そして社会を権力的に構成している最終にあるものは、死の恐怖である。死など恐れないという人でも、たいていは自然に訪れる死の受容を確信している点で宗教信者と変わりはない。