自主規制の時代に原作の暴力性を果敢に再現
深町秋生の「このミステリーがすごい!」大賞を受賞した小説『果てしなき渇き』(宝島社)は、内容のハードさから、映像化が難しいといわれていた作品だった。それを、まだ映画化できるかわからない時点から、自主的に脚本化を進めていた中島哲也監督の執念が結実したのが、映画『渇き。』だ。
©2014「渇き。」製作委員会
深町秋生の原作小説は、人格的に問題がある元刑事の主人公藤島が、離婚した妻が引き取っていた中学生の娘加奈子が行方不明となったため、死に物狂いで探す物語である。警察組織にも頼らず、自力で娘の友人たちと接触し、失踪理由の深奥に近づいていくほどに、自分が知らなかった娘の裏の顔を見ることになる。
『果てしなき渇き』は中学生が覚せい剤を使用し、名士相手の売春組織を形成する。また娘を探す藤島も、気力が衰えないように覚せい剤で興奮状態を維持し、聞き出す相手によっては暴力もいとわない。そしてストレスのはけ口として別れた妻に暴行さえ加える、最低のダークヒーローである。
映画化にあたって藤島を演じるのが役所広司だ。この迫力が凄まじい。歩き方からして躁な狂乱そのもので、ずっと唾を飛ばしてどなり続け、冒頭から異常なハイテンションのまま突っ走っていく。アロハシャツに白のジャケットをはおっているが、映画は加奈子が起こしたトラブルから、やはり彼女を追うヤクザが、加奈子とつるんでいた十代のチンピラの腹を割くような凄惨な暴力沙汰となり、役所広司の白い服もどんどん濁った血の色に染まる。
『果てしなき渇き』の映像化が難しいといわれていたのは、時間軸の交錯によるミステリアスな物語性とともに、日本のエルロイと呼ばれるような、容赦ない暴力描写が多いためだ。読んでいるだけで痛みを伴うような様々なヴァイオレンス、そしてローティーンの少年少女を巡って起こる、麻薬などをはじめとする危険な要素。しかしそれらがこの小説を作り上げる中で、欠かせない〈苦痛〉という要素なのだ。
そのため、自主規制に走りがちな現在、映像化においてこれらのヤバい要素をそのまま表現できるかが不安だった。もしこれらの暴力性を自主的に避けてしまったら、それはもはや『果てしなき渇き』ではない。
だが、中島哲也監督は果敢にもそれらの重大要素を描写した。さすが、『嫌われ松子の一生』(2006年)で年代に忠実でいるために、看板の「トルコ」という文字を使い「ソープランド」でお茶を濁さなかった人である。若干、「耳をそぐ」といった暴力描写が、そぎ落とすところまで撮影はされていたものの、R-15を維持するため、残念ながら途中まででカットされたそうだが、原作への真摯な敬意と取り組みを感じる。
また、中島哲也らしい映像感覚もある。10代の少年少女によるクラブパーティーは、現実離れしたポップさで、全員がきゃりーぱみゅぱみゅのような原色による世界だ。原作ファンにとっては、めまいがするほどのカラフルさは好き嫌いが分かれる境目だと思う。
©2014「渇き。」製作委員会
原作に忠実であるがゆえに生じるひずみ
小説は主にふたつの時間軸が章ごとに交差する。3年前に少年が綴った日記と、加奈子を探す藤島が荒んでいく現在に近い時間。日記は不思議な美少女・加奈子に惹かれる“僕”が、徐々に加奈子のいる奈落の底に引っ張り込まれていく過程が描かれ、藤島も警察や地元の名士を巻き込んだ売春組織の存在にぶち当たってしまう。そして、物語は最後の章で、現在の時間軸へと至る。
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