処女作「セキストラ」の斬新性
星新一の処女作がなんであるかは判断が難しい。時系列的には、星新一自身が作品第一号とする22歳のときに執筆した「狐のためいき」がある。1949年「リンデン月報」9月号に掲載され、後にその原点としての位置づけから注目された。1993年に雑誌『SFアドベンチャー』(徳間書店・休刊)へ収録され、さらに彼の死後にメモリアル的な意味付けで編まれた『天国からの道』(新潮文庫)にも収録された。
「狐のためいき」は、人間との混血の狐が人間を化かせないと述懐する物語で、狐は化けるなら美女に化けようかという思いも抱く。星新一という人間のありかたを象徴する第一作ではあるが、掌編すぎてとらえどころがない。次作が24歳のときの「小さな十字架」である。心温まるクリスマスストーリーである。書き改められて『ようこそ地球さん』に収録されている。
それからの数年、星は実業家としての生活に追われた。長く創作のブランクがあり、30歳になって実業に見切りを付けたのか、短いエッセイとともに、作品を同人誌「宇宙塵」に発表した。これが事実上の処女作「セキストラ」である。商用誌「宝石」1957年11月号にも掲載され、その斬新な作風がSF読者の枠を超えて注目された。『ようこそ地球さん』に収録されている。
セキストラとは、「ある種の弱い電流の発生装置で、人体の一部に取り付け、スイッチをいれると非常な性的興奮を起こし、性行為とおなじ、またはそれ以上の満足を与える」装置である。作品は、「セキストラに関する資料の切抜きを、順を追って収集した」として、多面な資料の構成という形式で書かれている。
現時点で読み返すと、スケールの差はあるが村上春樹『海辺のカフカ』(新潮文庫)の冒頭にも似た印象がある。こうした作風は現代文学の一般的な意匠ではあるが、星新一にしてみると、もともと思考も数多くの創作も基本的にスクラップ状に分断された部品から組み上げられているので、作品「セキストラ」はむしろ、星新一の思考・創作現場がそのまま表出された作品だったと理解してよい。
作品「セキストラ」は一般向けのショートショートよりはトリックが若干複雑なので読みづらい点がある。それを意識したためか、現在『ようこそ地球さん』で読める版では1987年に、改作と言えるほど大きく修正が加えられた。修正の大半は執筆時の冷戦時を思わせる詳細の削除だが、気になるのは、実質主人公である「那須完一。三十五歳。」の改名である。前版では「佐山昭二。三十五歳。」だった。名前の変更は、ナスカ文明の末裔であることを「那須完一(ナスカンイチ)」という駄洒落(ナスカ・インカ・血)で仄めかすことで、若い読者に向けたユーモアと解説的な意味合いがあった。
「セキストラ」はすでに大きく修正が加えられているが、作品自体の面白さには初出と大きく変わりない。「特殊なウエアラブル・ディバイスによって性欲が充足されると人類はどうなるのか」という思考実験と、それを巧妙に使った世界征服というたくらみの組み合わせが意表を突くように読める。
この作品は発表当初、斬新な手法と主題から好評をもって受け止められた反面、ロシアからソ連時代の作家イリヤ・エレンブルグが1923年に著した『トラストDE―小説・ヨーロッパ撲滅史』(海苑社)からの影響などがあり、斬新とは言えないとの指摘もあった。
現時点で「セキストラ」を再読するとどうだろうか。依然、驚くほど斬新である。いわゆるショートショート的な意表を突くオチの部分は、率直に言ってそれほど面白いとは言えない。また、性が充足されたら人類はどうなるかという思考実験も十分に面白いとは言えない。ではなにが面白いのかと言えば、この作品が、情動的な世界の情報を一元的に制御できることの意味を考えさせる点にある。
セキストラは、現代のGoogleと相似なのだ。Googleは、「セーフ」サーチのように表現の上品な規制を行っているかに見せかけ、また「表現の自由」の看板を掲げているようでいながら、実際には、セキストラのように人類の情動を制御しているに等しい。つまり、私たちはGoogleによって意識が支配され、またプライバシーさえ失うほど征服されているのである。こうした殺伐とした未来が来ることを星新一は先駆的に直観していたと言ってよい。
無意識に描かれてしまった「ボッコちゃん」の女性像
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