終戦直後に生まれ古希を迎えた稀代の司会者の半生と、 敗戦から70年が経過した日本。
双方を重ね合わせることで、 あらためて戦後ニッポンの歩みを 検証・考察した、新感覚現代史!
まったくあたらしいタモリ本! タモリとは「日本の戦後」そのものだった!
タモリと戦後ニッポン(講談社現代新書)
せんだみつおは偉かった
いまではすっかり忘れ去られていることだが、40年ほど前、せんだみつおがテレビのバラエティ番組で大活躍していた時代がある。まだタモリもビートたけしもブラウン管に出るか出ないかという頃だ。1947年生まれのせんだは、戦後生まれのバラエティタレントの先駆けともいえるかもしれない。
せんだみつおがかつてトップタレントであったという事実を、「信じられない」と思えるのもせいぜい私も含めた現在40歳前後の世代ぐらいまでで、おそらく若い世代はせんだの名前さえも知らないのではないか。しかし彼がバラエティに残した足跡は、あながちバカにならない。たとえば、ビートたけしの「ナハナハ」「コマネチ!」というギャグが、もともとせんだの持ちネタであることはわりによく知られている(「ナハナハ」はいまだにせんだのイメージのほうが強いが)。あるいは秋元康が放送作家となったのは、高校時代にせんだのラジオ番組を聴いて「自分にも書けるかもしれない」と思い、台本を投稿したのがきっかけだったという。タモリの最初期のレギュラー番組の一つ、日本テレビの『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(1973~79年)でも、せんだが和田アキ子らとメインを張っていた。
せんだの人気を決定づけたTBSの『ぎんざNOW!』も、テレビ史に一つのエポックをつくった番組である。平日夕方、銀座のサテライトスタジオ「銀座テレサ」に観客を入れての公開生放送で、せんだは1972年の放送開始とともに司会に抜擢された。番組自体は79年まで続いたが、せんだ自身は体の不調からその前年に降板している。以後、タモリのブレイク、それから1980年代初めの漫才ブームと、笑いの世界に新風が吹くなかで、せんだの影は薄くなっていく。
たけし・鶴瓶・さんま・関根勤……みんなタモリの先輩だった
『ぎんざNOW!』は毎週月~金の公開生放送であることに加え、出演者に素人をメインに据えた点でも、のちの『笑っていいとも!』を先取りしていたといえる。『いいとも!』でもっとも長くレギュラーを務めた関根勤も、この番組の「素人コメディアン道場」というコーナーで5週勝ち抜いて優勝したところをスカウトされて芸能界にデビューしている。1974年、関根が21歳のときだ。
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