終戦直後に生まれ古希を迎えた稀代の司会者の半生と、 敗戦から70年が経過した日本。
双方を重ね合わせることで、 あらためて戦後ニッポンの歩みを 検証・考察した、新感覚現代史!
まったくあたらしいタモリ本! タモリとは「日本の戦後」そのものだった!
タモリと戦後ニッポン(講談社現代新書)
保険外交員からボウリング場支配人へ
ジャズ・トランペット奏者のマイルス・デイヴィスは1969年に『イン・ア・サイレント・ウェイ』、翌70年に『ビッチェズ・ブリュー』とアルバムを立て続けに発表した。そこでマイルスは電子楽器を大幅に導入する。フュージョンミュージックのルーツともされるこのスタイルは、ロックの流行にマイルスが刺激されて生み出したものだった。ただ、この画期的な試みに対しては、それまでマイルスを支持してきたファンのなかにも戸惑う者が少なくなった。タモリもその一人である。
俺はね、マイルスの変貌の時はついていけなかった。その当時は、どうしたんだろう、なにをやりたいんだ、この人はって。わかんなかったよ。ずいぶん後になって、聴き返して、やっぱりすごいことやってんだなとわかったけどね。
(高平哲郎『植草さんについて知っていることを話そう』)
マイルスが変貌を遂げていた頃、タモリはすでに郷里・福岡でサラリーマン生活を送っていた。職種は朝日生命の外交員。それでもジャズへの未練は断ちがたく、仕事をサボってはジャズ喫茶に行っていた、と本人は語る。だが、その言葉に反して、地元での森田一義青年の評判はかなりのものだったらしい。彼ほど有能で、勤勉な人物はいないというのだ。
結婚の話も、彼の人柄を見こんで持ちこまれたものだったようだ。福岡市議の高山博光によれば、高山の父親は森田青年に惚れこんで、結婚の媒酌人を務めたという。これは『女性自身』1982年4月22号の記事での証言だが、地元の有力者だった高山の父が、どうしてタモリを知っていたのか、とくに説明はない。外交員として方々を回っていた彼の姿が、たまたま目にとまったのだろうか。
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