残酷な「おかあさんの叫び」の力
物語は、聖なる者と俗なる権力という構図を越えて、肉親の母親という根源的な聖なる力が現れることでクライマックスを迎える。聖母マリア騎士的なすべての義が、肉親の母親のヒステリックな声によって砕かれてしまうのである。
それは、主人公の東大君が最後の逃走を試みるとき、母の声で動けなくなるシーンに現れる。
(やった。これなら逃げ切れる)
と、おもった。なにしろ快速の停まっている三番ホームではまだベルが鳴り終わっていないし、二番ホームの普通はいまやっと停まったばかりなのだから。
駅員のおじさんから切符を受け取り、明君や庄平君の後を追って三番ホームへのぼる階段めがけて走りだそうとしたとき、うしろで、
「東大ちゃん」
というおかあさんの声がした。
「東大ちゃん、行っちゃだめ」
ぼくのズック靴の底が床にぴったりと貼り付いてしまった。江戸川の近くの湿地帯のなかに足を突っ込んだときのように両足が動かないのだ。
「東大、そのままでいるのよ」
とおかあさんは叫んでいたけど、ぼくはそれが全世界が吠えている声のように聞こえた。全世界がぼくを叫びとめている。
これを母性愛的な日本的な心理世界の帰結と見るか、井上ひさしの母・マサとの関係の隠喩と見るか、解釈は多様にできる。しかし、ここに出現した「叫び」はそんな生やさしい解釈の話題ではない。それはまさに「全世界が吠えている声」であり「全世界がぼくを叫びとめている」ということだった。世界から隠されていた実在が突然ここに出現したのである。私が高校生当時に読んでもっとも衝撃を受けたのはこのシーンである。そしてこのシーンがそれからの私の人生にとって、もっとも不吉な真実になるだろうと直観したものだった。
単純な問題ではない。
そのときのぼくの気持ちをもっとくわしくいうとこうなるだろう。
北海道どころか、アフリカの大草原やアラスカの大氷河やアマゾンの大密林やオーストラリアの中央大砂漠に逃げたところで、おかあさんはきっと追ってきて、かならずとっ捕まえるだろうというあきらめ。つまり、どこに行こうが母親はついてくるんだというおそろしい事実を、ぼくはおかあさんの叫びで知ったのだ。糸の切れた凧は、うまく風に乗ることができれば、どんなに遠いところへでも飛んでいける。でも、おかあさんがいるかぎり、ぼくたちにはそれができない。それをおかあさんの金切り声からぼくはさとったんだ。おかあさんがぼくたちを縛っている糸はとても丈夫で、おかあさんを殺そうが、どんなに遠くに逃げて行こうが、決して切れやしないのだ。
肉親の母親の怖さは、西洋の文脈では、フィリップ・ロスなどユダヤ人作家の文学に暗喩されていることがあるが、その恐ろしさの本質をここまで端的に表現した文学作品を私は知らない。