終戦直後に生まれ古希を迎えた稀代の司会者の半生と、 敗戦から70年が経過した日本。
双方を重ね合わせることで、 あらためて戦後ニッポンの歩みを 検証・考察した、新感覚現代史!
まったくあたらしいタモリ本! タモリとは「日本の戦後」そのものだった!
タモリと戦後ニッポン(講談社現代新書)
私語禁止のジャズ喫茶
ビートたけしは明治大学在学中、新宿の「ヴィレッジ・ヴァンガード」という店で働いていたことがある。といっても、雑貨も売っているあの本屋ではない。ジャズ喫茶である。もっとも、いずれの店もアメリカ・ニューヨークにある有名なジャズクラブからその名をとっているのだが。
それはともかく、当時20歳のたけしは新宿のヴィレッジ・ヴァンガードに遅番のボーイとして働いていた。このときたけしと入れ違いに早番で勤務していた青年が、永山則夫だったという。1967年頃というから、永山が1カ月足らずのあいだに東京はじめ各地で計4人をピストルで射殺した、いわゆる「108号事件」を起こす1年ほど前のことだ。
ジャズ喫茶というのは文字通り、ジャズのレコードを聴かせる喫茶店である。たいていの店では、客のリクエストに応じて曲がかけられた。レコードがまだ高価だった時代、高音質のオーディオセットで曲の聴けるジャズ喫茶が、日本のジャズファンに果たした役割は大きい。タモリも、早稲田大学のモダンジャズ研究会に在籍していた頃によく新宿あたりのジャズ喫茶に入り浸っていたという。
1960年代の新宿のジャズ喫茶の代表として、いまでもファンのあいだで語り継がれている店にDIGがある。ただしタモリはDIGは性に合わなかったと語っている。マジメで、《しゃべってると“静かに”とか怒られる》のがその理由だ(『宝島』1986年11月号)。
「しゃべってると“静かに”とか怒られる」というのは、この時代のジャズ喫茶の特徴としてよくあげられる。これは店側の押しつけというより、曲が会話で聴こえないと客のあいだでケンカが起こったりしたので、やむをえずそうしたという側面が強いらしい(後藤雅洋『ジャズ喫茶リアル・ヒストリー』)。DIGでも当初は、客同士がコミュニケーションを取り合うことをむしろ歓迎していたものの、同様の理由でやがて私語を禁じるようになったという。
私語が禁止される以前から、DIGは鑑賞に重きを置いた硬派なジャズ喫茶として、他店をリードする存在であった。求道的なファンが輸入新譜を聴きに来る一種の聖地であり、「ここで“みっともなくない”リクエストができればファンとして一人前」みたいな伝説さえ広まっていたという。ようするに相応の知識を要する店であり、気楽に入れる雰囲気ではなかったわけだ。
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