あらすじ:森川家には、母から子供たち、二匹の猫まで女だらけ。十数年前に妻を亡くした一家の主・崇徳(むねのり)にとって、女は知れば知るほど理解できない摩訶不思議な生き物だった——女系の家に生まれた男の処世術とはいかに。
*
「うぉっ……、すまん!」
バタンッ!!
寝る前に、妻が切ってくれたスイカを食べたせいか、明け方にトイレへ行きたくなり、朦朧としたままトイレのドアを開けたら、パンツを下ろした娘がいた。
最悪である。
私は断じて、何も見ていない。パンツを下ろしているとは言ったが、それは状況的にそうであろうという想像でしかない。
ほら、まだ目が半分も開いていないし、メガネも枕元に置いてきたままだ。しかし、壊れるような勢いでドアを閉じた娘には、何を言っても逆効果だろうと思えた。
私はその場にしばらく佇み、「おかえり」と小さく声を掛けてから、寝室に戻った。
トイレの波は、すっかり消え去っていた。
長女は以前、書店で働いていたが、中途で出版社の営業職に受かり、寝る間も惜しんで働いていた。月に何度も出張があり、付き合いの飲み会で午前様になることも多い。
早寝早起きの私は、なかなか彼女の顔を見ることがでいないでいた。
正直言って、すごく心配である。大丈夫か、無理するな、と声を掛けてやりたい。 だが、トイレを覗いてしまった後では、それもできない。
数時間まどろみ、いつものアラームで目を覚ますと、膀胱が破裂しそうになっていた。しかしトイレは使用中。次女が入っているようだ。
食卓に着くと、奇妙な色のドロドロをたっぷりと注いだ赤いボウルを、妻がドンと置いた。
「何だこれ」
これはどう見ても、餃子やハンバーグのたねを作るときに使う容器だ。スプーンを添えて食卓に置くものではなかろう。
「アサイーボウルよ」
「いやいや、これ全然浅くないだろう。むしろフカイーボウルだ、ハハッ」
「寒っ。朝からさがるわー」
トイレから出てきた大学生の次女が、冷ややかに言って通り過ぎた。
家族にも、会社の女子にも、笑ってもらえたことなど一度もないのに、また親父ギャグを言ってしまった。しかしあれは、げっぷや屁と一緒で、年とともに出やすくなるものなのだ。
「ブー」
私にだけ懐かない飼い猫(雌)が、食卓で屁をこいた。こいつももう、年である。
「おや、今流行りのアサイーじゃないかい。ポリフェノールたっぷりで、老化防止だね~」
同居している母親が、80代の寝起きとは思えぬ軽やかな動きで、食卓に着く。歯も毛もしっかり生え揃っているし、意外ともち肌だし、骨密度も問題ない。
しかし、きっと30分後には、志村けんのコントのように、「飯はまだかい~」と言い出すだろう。彼女は最近、まだらボケの気があった。腹が減ったらアサイーを食ってくれ、アサイーを。
「いただきます」
アサイーはブルーベリーみたいな色なのに、思ったよりも眠たい味だった。バナナやグラノーラと混ぜ合わせて食べるが、これでは塩気がまったくない。デザートだ。
「いってきます」
職場がある有楽町駅前の吉野家で、朝定食を食った。
「おはようございます、いらっしゃいませ」
三省堂書店有楽町店は、開店からしばらくの間、従業員が各入り口に立って、客を出迎てくれる。
私はそれが大好きで、必ず出勤前には、用がなくても立ち寄ってしまう。子供のころ、母親と開店前からデパートの入口に並んだときのワクワクを思い出すからだ。
しかし、出勤前なのでゆっくりはできない。朝は今日発売の雑誌と、常に入れ替わる新刊台をザッと見るだけにしている。
「お、藤田宜永の新刊だ。女系か……」
我が家も女系だ。子供は娘が2人、誰も妻には逆らえず、母親もぼけ始めてはいるが、気は強い。男は必ず早死にする、際立って女系の家系なのだ。
『女系の総督』という小説の表紙で、女難の相を浮かべる男に強いシンパシーを感じ、つい手に取る。
「あなたのソートク度は?」という診断チャートが挟まっていた。
手書きだから、この店のオリジナルフリーペーパーなのだろう。
<全ての質問にYESと答えたあなたは、ソートク度100%! この本はあなたのためにあると言っても過言ではないでしょう>
ふうん、どれどれ。
<なぜか娘に嫌われることばかりしてしまう>「YES」
<妻に本当は朝ごはんは和食がいいと言えない>「YES」
<未だに母親には逆らえない> 「YES」
<家族に言えない秘密がある>「……」
「SAY、YES~♪」
うわぁ!
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。