肉体が死んでも実存は残る
部屋のなかでこの原稿を書きながら、ぼくはまたSRの不思議な体験を思い出していました。
SRシステムをつけて現実を見た短い時間に、ふと人間の実存感というのが揺らぐ瞬間があったのです。
なんというか、SRを通して人間を見てると、みんな幽霊っぽく感じられてしまったのです。
今と過去がよくわからなくなって、存在というものがふわふわしたものになっていく。
あれは一体なんだったんでしょうか。
藤井さんはこう言っていました。
「私は、SRの空間は、日本の伝統芸能である『能』の世界と近いと思います。死人との境界がない。いきなりあの世から出てきていきなりしゃべって帰る。あれとすごくよく似てる」
ぼくは最近出した『頑張って生きるのが嫌な人の本』(大和書房)のなかで、「データ的実存」なる思想を提案しました。これは友達が死んだ後に考えたことです。
他者に「実存」を感じる瞬間、みんな肉体そのものから実存感を受け取っていると思ってるけど、それは違う。他者の肉体と、自分の中に生まれた仮想の他者データの同期、それが実存感を生んでいる——そういう説です。
自分の外側からやってくる相手のリアルな身体情報と、自分の内面で生まれる相手への感情をふくめた様々なデータ。
その相互運動が「実存感」の正体だとすれば、他者の肉体(ハード)が死んで、ぼくに彼のデータだけが残された場合、たまたま似ているハードを見つけた瞬間、実存が立ち上がってしまう——それが幽霊ではないでしょうか。
素人であるぼくの話を聞いていた藤井さんは、
「それは、自分の動きと他人の動きが同期すると、ひょっと感覚がそちらに持っていかれる体験に近いかも知れませんね。SRで撮影したものを後から体験すると、自分の体験として戻ってきてしまうことがあります」
そう答えてくれました。
藤井さんがこのとき言った「持っていかれる」という言葉が、なんだか懐かしく感じました。
昔、暗黒舞踏の公演を見たときに、演者と自分の身体が完全に同期して相手に乗り移ったような、不思議な感覚をおぼえたことがあります。
初めての体験でしたが、友達に話すと「それは『持っていかれる』というやつだ。能の舞台を見るとけっこうそうなる人がいる」と言われて驚きました。
能といえば、ちょうどぼくはこの実験にうかがったとき、能のワキ方(※)である安田登さんの『あわいの力』という本を読み終えたところでした。
※能において、主題となる「シテ」の相手役などをつとめ、その思いを聞き出す役割を担う、専門の能楽師のこと。
近々終わるであろう心の時代、その次に備え、古代文献から心の誕生をもういちど見直し、心と身体、見えないものとのつきあいかた、などについて考えた本だということでした。
彼の既刊『身体感覚で「芭蕉」を読みなおす。』のなかで書かれていたことですが、引きこもりの人達を連れて芭蕉の歩いた道をたどるツアーをすると、あるときに生命力を取りもどす人がいるそうです。
さっきのぼくのデータ的実存の見方でいくと、データと現実とをうまくリンクさせ、実存を取りもどす——そういうことです。
能はもともと宗教儀式だったそうです。
昔の人は、身体感覚を同期させて、お互いにつながりあうことを楽しんだのでしょうか。まるで、ネットにつながれたパソコンのように。
それはまさに人間と機械の交点に立ったときに見える風景でした。
SRは「現実の再発見」だ
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