終戦直後に生まれ古希を迎えた稀代の司会者の半生と、 敗戦から70年が経過した日本。
双方を重ね合わせることで、 あらためて戦後ニッポンの歩みを 検証・考察した、新感覚現代史!
まったくあたらしいタモリ本! タモリとは「日本の戦後」そのものだった!
タモリと戦後ニッポン(講談社現代新書)
「司会者・タモリ」誕生
ジャズマンのあいだでは、ジャズを「ズージャ」、モダンジャズを「ダンモ」、ピアノを「ヤノピ」などという具合に、言葉を引っ繰り返して呼ぶ慣習がある。タモリという芸名も、本名の森田を引っ繰り返してつけられたということはつとに知られるところだ。タモリ命名は意外と早く、早稲田大学のモダンジャズ研究会、通称・ダンモ研に在籍していた時代だった。
タモリは高校時代にリー・モーガンやマイルス・デイヴィスといったジャズ・トランペット奏者に憧れていた。あまりの心酔ぶりに、所属したブラスバンド部では、顧問の教師にごまをすって楽器をトランペットに替えてもらうほどだった。将来もジャズ・ミュージシャンになるつもりでいたが、大学生になりダンモ研に入ってすぐ断念したという。先輩・同級生のなかにはのちに渡辺貞夫のバンドに入る増尾好秋(ギタリスト)や鈴木良雄(ベーシスト)など、自分よりずっと上手い連中がいたからだ。
トランペットはダンモ研に入っても1年ぐらい続けていたものの、結局レギュラーにはなれなかった。先輩から「マイルス・デイヴィスのトランペットは泣いているが、おまえのは笑っている」と言われてあきらめた、という話はよく知られるところだ。結局タモリは、司会、さらにはマネージャーを兼務することになる。その手腕は主に、全国各地を演奏でまわる旅、「ビータ」で発揮された。
早稲田大学には卒業生の団体として「
司会はコンサートをうまく進行するため重要な役割だ。1960年に発足したダンモ研には、研究にいそしむ「鑑賞部」の部員と、楽器を演奏する部員とがおり、司会は前者から出すことが慣例になっていた。ところがなかなか適任者がいない。そこで、演奏する側の部員だったタモリにお鉢がまわってくる。
司会者としてのタモリのデビューは、早稲田大学の大隈講堂でのコンサートだったらしい。ダンモ研の1年先輩で、在学中よりジャズ評論家として活動していた岡崎正通は、タモリが初めて司会をするのを見て、格段に目立った特徴があったわけではないが、これまでの司会者とは違い「何だか面白かった」ことが記憶にあるという(片田直久『タモリ伝』)。
タモリの司会はしだいに評判をとるようになった。メンバー紹介のときなど、まず「いつもは学年順に先輩からやるのが普通ですが、きょうは顔のいい順に紹介します」と言っておき、メンバーがステージに出てきたところで、「まずは最初。司会の私」とやったりすると、結構ウケたという。バカバカしい話やモノマネをしているうちに、司会のパートが演奏より長くなることもしばしで、バンドのメンバーからは「俺たちはおまえのしゃべりの合間に演奏してるんじゃないんだから」と言われるほどだった。
列車内で中国人になりすます
演奏旅行は夏に2カ月、春に1カ月という長丁場で、年間を通じて約300ステージをこなした。移動はもっぱら夜行の鈍行列車。旅行中は列車のなかで寝起きする日々が続く。鈍行には寝台がないので、網棚の上で何度寝たかわからないという(『ザ・ヒーローズⅡ』)。車中で洗濯をして、荷台から荷台にロープを吊るして干すこともよくあった。見かねた車掌から、「通路のとこだけは空けてください。パンツが乗客の顔にあたりますから」と注意されたりもしたとか。注意するの、そこじゃないだろ。
列車内では、ほかの乗客にいたずらを仕掛けることもあった。タモリは仲間に「じゃ、やってくるな」と言って、一人で車両の端のボックスシートに移動し、誰かが来るまで待っている。そのうち向かいの席に2人くらい座るが、しばらくはじっとしていて、そのあといきなり「ウーチャ、シーチェンターパイヤア」とデタラメな中国語でしゃべりだす。そのときの相手の反応を楽しむのだ。
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