偽原始人(井上ひさし)前編

今回の「新しい「古典」を読む」は井上ひさしの『偽原始人』を取り上げます。2010年に亡くなった井上ひさしは、作家として小説、戯曲、随筆と数多くの作品を残しました。数々の受賞歴もある井上ひさしの作品の中で、なぜfinalventさんは『偽原始人』を選んだのでしょうか。本作には井上ひさし作家人生を紐解く書評を、前中後編に分けてお届けします。

数多くの傑作の中、なぜ『偽原始人』を評するのか


偽原始人 新潮文庫

 なぜ、井上ひさしの『偽原始人』なのか。この作品は彼の代表作とは言えないだろう。他にも傑作が多いからだ。例えば、直木賞作となった『手鎖心中』(文春文庫)、日本SF大賞と読売文学賞を得た『吉里吉里人』(新潮文庫)がまず思い浮かぶ。文学賞という連想からは、吉川英治文学賞の『腹鼓記』(新潮文庫)『不忠臣蔵』(集英社文庫)、谷崎潤一郎賞受賞の『シャンハイムーン』(集英社)、菊池寛賞の『東京セブンローズ』(文春文庫)などもある。どれを代表作としてもよい。

 さらに劇作家としても傑作が多い。岸田戯曲賞と芸術選奨新人賞を受けた初期の『道元の冒険』(新潮文庫)や、彼の戯曲を専門とする「こまつ座」の作品群(『頭痛肩こり樋口一葉』集英社、『日本人のへそ』など)も挙げられる。

 作品をいくつか並べただけでも井上ひさしが巨大な作家だということがわかる。代表作を絞り込むことは難しく、未完作品を含めてその全体像を知ることもいまだ難しい。幸い、存命中に書かれた評伝『井上ひさし伝』(桐原良光著、白泉社)、没後3年で書かれた評伝『ひさし伝』(笹沢信著、新潮社)などがあり、偉業を読み解くのに役立つ。

 それでも、これらの評伝が手際よく概括する半面にはまだ大きな闇のような部分がある。初期から中期の作品を裏で支えた元妻・西舘好子による回想的作品、『修羅の棲む家』(はまの出版)や『表裏井上ひさし協奏曲』(牧野出版)、さらに末期に会うのも禁じられた長女・井上都の手記、次女・井上あやとの書簡、三女・石川麻矢『激突家族 井上家に生まれて』(中央公論社)には、奇妙とも思える井上ひさし像がある。しかも、それはこの作家の本質に関わっていて、上品にプライベートな像に押し込められるものでもない。この作家の全貌が見えるのはさらに将来の評伝に任されるのかもしれない。

 傑作も全貌も十分にわからないが、私は、井上ひさしという作家をその初期から終わりまで傍観してきた一人の無名の読者として、言い表しにくい、一つの中核となるイメージを持っている。そしてその黙想で浮かび上がってくる一冊がある。『偽原始人』である。それは後期昭和という時代とその時代の家庭というものの風合いのなかにまず置かれる。

 この作品は新聞の連載小説として書かれたことからもわかるように読みやすい。まず気負わずに楽しく読んでよい。主人公は五年生の三人組であり、子どもの視点も考慮して書かれている。彼が放送作家であった時代、山元護久と共作した子ども向けテレビ作品『ひょっこりひょうたん島』や、書籍化された小説としては処女作となる『ブンとフン』のように、おもちゃ箱をひっくり返したような面白さもある。

新左翼運動の挫折

 『偽原始人』は朝日新聞に連載された。1975年(昭和50年)7月28日の月曜日の夕刊から、翌年4月17日の土曜日まで続いた。私が17歳から18歳の時期、高校2年生から3年生になるころである。私はこの作品を毎日、夕刊で読んでいた。夕刊連載は娯楽要素が強く、前作品は五木寛之の『凍河』、次作品は小松左京の『こちらニッポン…』だった。

 『偽原始人』は日本の新聞小説の常として毎回、挿絵がついていた。グラフィックデザイナー山下雄三によるイラストで、それも思い出深い。あの全イラストを再現した『偽原始人』の豪華版があれば是非欲しいところだ。ちなみに井上より2歳下の山下は、井上が死ぬ2年前、2008年に71歳で亡くなった。

 1970年代、あの時代。中学生から高校生のころ、私はずっと朝日新聞を読んでいた。後に執筆者が深代惇郎だと判明する「天声人語」はもちろん欠かさない。高校三年生のとき、読者欄に投稿して採用されたこともある。自分にとって朝日新聞の黄金時代だった。そこにこの作品が、あの時代そのものとしてある。

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finalvent

「極東ブログ」で知られるブロガーのfinalventさん。時事問題や、料理のレシピなどジャンルを問わない様々な記事を書かれているが、その中でもとりわけ人気が高いのが書評記事。本連載は、時が経つにつれ読まれる機会が減っている近代以降の名...もっと読む

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