一故人

​周富徳—凄腕料理人がバラエティに出た理由

厨房で腕を振るう一方で、中華料理の第一人者としてマスコミに登場し、バラエティ番組などでも大活躍をした周富徳。「炎の料理人」と呼ばれた彼の活躍ぶり、そしてその原点にあったものなどについて、ライターの近藤正高さんが綴ります。

体を張ったバラエティ番組出演

『浅草橋ヤング洋品店』(『浅ヤン』)といえば、深夜のお色気番組『ギルガメッシュないと』と並び、1990年代のテレビ東京のヤケクソ感を象徴する番組だった。『浅ヤン』の演出を手がけたのは、まだ本名の伊藤輝夫を名乗っていた頃のテリー伊藤である。彼は、ファッションデザイナーの中野裕通やプロレスラーの藤原喜明など芸能人以外の人間も積極的に出演させた。とりわけバラエティ番組として異色だったのは、料理人を何人も引っ張り出してきたことだ。それも伊藤のことだから、単に料理をつくらせるだけでなく、かなり無茶なこともやらせた。

『浅ヤン』への出演をきっかけに、広く一般にも知られるようになった料理人の筆頭が、中華料理人の周富徳(2014年4月8日没、71歳)である。番組では、周がカメラに視線を向けてにらみつけるのが毎回お約束で、それをレポーターの浅草キッドが「出たー、カメラ目線!」とはやし立てた。これはもともと、周が変装して正体を隠し、町のラーメン屋へ修業に行くというコーナー「お料理水戸黄門」で、何も知らない店員から怒鳴りつけられたりして、頭に来たので思わずにらみつけたのが発端だったという。以来、カメラ目線は、ほかのテレビ番組に出ても要求されるようになるぐらい、周の代名詞になった。

『浅ヤン』に出始めたのは冬場で、しかも低予算のため公園での収録が多かった。寒いのが人一倍苦手な周にとってこれはきつかったらしい。きわめつけは、 股引 ももひき を穿き、スキー場を中華鍋に乗って滑らされるという罰ゲーム。スキー場の営業終了後、真夜中の撮影だっただけによけいに寒く、周は逃げ出そうと思ったほどだという。でも、出演者よりも大変なのはアシスタントディレクターで、ここで逃げれば彼らが叱られてしまうと思いとどまった。なお、こんな無茶な企画ばかり続くのはたまらないので、自分の代役として同じ中華料理人の金萬福や弟の周富輝を『浅ヤン』に連れてきたのだと、ある対談で冗談っぽく明かしている(『週刊読売』1998年7月19日号)。

『浅ヤン』の放送開始が1992年、翌年にはフジテレビで『料理の鉄人』が始まり、周富徳は一躍、時の人となる。それまでNHKの『きょうの料理』などテレビにはたびたび出演していた周だが、こうしたバラエティ番組に出ることに、店の客やコック仲間からは「イメージが壊れるからやめてくれ」と言われることもあった。しかし撮影はきつくても、テレビに出ること自体は好きだったようだ。なぜ出演するのかと聞かれて、周は次のように答えている。

《自分が楽しむためだね。現代のストレス社会のなかで、仕事仕事って、枠にはまって仕事ばっかりやってちゃだめなんだ。もっと楽しまなきゃ。自分も楽しんで見ている人も楽しいって喜んでくれる。それで料理もおいしく作る。それがいちばんいいんだよ》(『PLAYBOY 日本版』1994年1月号)

とはいえ、「枠にはまって」かどうかはともかく、周ほど仕事ばかりしていた人もいない。本業に加え、テレビに出たり、全国各地を講演でまわったり、ブームのさなかは休みは一切なし。それでも「自分はストレスなんてたまらない性格」「基本的に忙しくしていることが好き」と語ってはばからなかった。1990年代半ばには一度、「船酔いみたいな感じ」が10日ほど続いたことがあったものの、仕事はどうにかこなしたという。

テレビ出演や講演で地方に行くだけでなく、中華料理の最新の動向を知るため、日本と香港を往復することもしょっちゅうだった。出張先から東京に戻った日も、ちょっとでも時間があれば店に直行する。そこで顔を合わせた常連客や芸能人の友達は、彼の多忙ぶりを知っているだけに「お店によくいるね」と驚いたようだ。しかし、自分は根っからの料理人と任じていた周にとって、やはり調理場に立っている時間こそ一番充実感が得られたのである。

賄いでつくった食事に親方から太鼓判

周は1943年、中国広東省出身の両親のあいだに横浜で生まれた。父親は、横浜中華街にある親戚の経営していた料理店でコックとして働いていた。周は幼い頃からその店の厨房に出入りしては、父が働く姿を見てきた。それが中華料理人となる最初のきっかけだったという。

プロとしての第一歩は、私立高校卒業後の1961年、18歳で修業に飛びこんだ「中国飯店」である。当時東京・新橋にあった中国飯店は、常連客に政財界の大物の多かった名門店だ。朝の9時半から夜の10時までみっちり働き、休日は月2日、しかも昼間の休憩時間まで1日置きという厳しさで、料理人どうしの競争も熾烈をきわめた。それでも手際のよい周はめきめきと頭角を現していく。

中国飯店では毎日の厨房での食事、いわゆる賄い飯を従業員が持ち回りでつくっていた。親方が下の者に命じてつくる賄いには、腕試しとしての側面もあった。周はこれをチャンスとばかり、順番が回ってくるたび、自分のありったけを注ぎこむことになる。周のついた親方が大の食いしん坊で、ちょっとやそっとではうまいと言わない。それがやがて、周の出す食事に太鼓判を押すようになる。調理場での彼を見る目も変わり始め、そのうち社長までもがわざわざ周の賄いを食べに来るまでになった。

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近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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rikky_psyche 周富徳――凄腕料理人がバラエティに出た理由 https://t.co/Z4tagdYNcC 仕事仕事って、枠にはまって仕事ばっかりやってちゃだめなんだ。もっと楽しまなきゃ。自分も楽しんで見ている人も楽しいって喜んでくれる。それで料理もおいしく作る。それがいちばんいいんだよ。 約1年前 replyretweetfavorite

matomotei 1件のコメント http://t.co/DkFjuo3TQb 約4年前 replyretweetfavorite

matomotei 1件のコメント http://t.co/DkFjuo3TQb 約4年前 replyretweetfavorite

donkou ケイクス連載、更新されました。きょうから1週間は無料でお読みいただけます。 約4年前 replyretweetfavorite