羊たちの沈黙 
この悪党がすごい!

今回の「およそ120分の祝祭」が取り上げるのは、ジョディ・フォスターとアンソニー・ホプキンスという名優二人が共演した『羊たちの沈黙』です。この作品に登場するレクター博士は、圧倒的な悪を体現した人物。その悪は魅力的ですらあります。現実の悪と比して、レクター博士を見ると、何が浮かび上がるのか……ご一読ください。

悪を徹底することはむずかしい。以前に「IT技術に長けた暴力団組長が、組員同士の交流を図るためのインターネット掲示板を作り、関係者に『どんどん書き込んでほしい』と伝えていた」というニュースを知ったとき、いくばくかの失望感があったことを覚えている。むろん暴力団員とてネット掲示板くらい使うのだろうが、せっせとキーボードを叩き、仲間の組員を応援するメッセージを残す姿には、几帳面さやおもいやりなどが感じられ、僕が考える悪の集団のイメージとはほど遠くおもえたのだ。「皆さまの広場です。政治問題、社会問題など何でも結構! 仲間同志気楽に語り合って下さい」という組長からの優しいメッセージもずいぶん拍子抜けである。あなたたちは暴力的な団体ではないのか。悪人なら悪人らしく、常日頃からアウトロー然としたふるまいを心がけてほしいのだ。

完全な悪など存在しない、という事実にわれわれは失望を隠しきれない。そうあってくれれば、ものごとはどれほどに単純でわかりやすかったか。人びとが悪へ抱く幻想は、予想以上に大きいものである。ドイツ出身の哲学者ハンナ・アーレントが、1963年に『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)を発表したとき、世間から大きな反発があったのは、何よりこの書物がきわめて冷徹に「悪の幻想」を打ち砕いたためではなかったか。

『イェルサレムのアイヒマン』は、ナチス党員であり、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)で指揮をとる立場にあった男アドルフ・アイヒマンの裁判傍聴記録である。アイヒマンは戦後アルゼンチンで逃亡生活していたところを捕えられ、イスラエルへ連行された後に裁判を受けることとなる。アーレントは裁判の取材を通して、数百万の市民を死へ追いやったアイヒマンが、実際には単に気が弱く、役人体質に骨の髄まで漬かった凡人でしかなかったという事実を発見するのだ。

悪は陳腐である、とアーレントは喝破した。巨大な悪を為すのはモンスターのごとき悪人ではなく、どこにでもいる凡人だというアーレントの意見に、多くの人が怒りの感情を抱いたのもうなずける。それは、アイヒマンが社会から排除すれば万事が解決する異常者でも0.001%の特殊事例でもなく、彼が自分たちと何ら変わらない凡人であり、状況によっては自分自身がアイヒマンの役割を担った可能性すらあるというおぞましい事実を直視させられるためだろう。アイヒマンほどの戦争犯罪人であれば、みずからの行いに対する覚悟はあるはずだと誰もが想像していた。

しかし現実のアイヒマンはといえば、「全ては上からの指示でしたし、自分はその命令に従っただけでした」と小声で繰りかえすだけの貧相な男でしかないのであり、ホロコーストの中心的立場にあったのはよりにもよってこの男だったのかという現実が、人びとをさらに暗澹たる気持ちにさせたのだ。彼にあれほど怖ろしい役割が務まるのであれば、つまりそれは、誰もがアイヒマンでありうるということではないか?

『羊たちの沈黙』(’91)に登場する犯罪者、ハンニバル・レクター(アンソニー・ホプキンス)が、映画史でも屈指の悪役として記憶されているのは、彼の悪がどこまでも徹底され、崇高さを感じさせるまでに完璧なためだ。現実の悪が陳腐であり、ときに救いがたく間抜けであることを知ってしまったわれわれは、せめてフィクションのなかではパーフェクトな悪を体験したいというねじれた欲望を持つ。かかる期待に応える悪役こそが、『羊たちの沈黙』におけるレクター博士である。観客が見たいのは、途中でつまらない反省を始めたり、安っぽい言い訳や自己正当化で都合よく現実をねじまげたりしない、真の悪役だ。己の為す悪について確信を持ち、求道的で、美学を備えた孤高の犯罪者である。『羊たちの沈黙』は、綿密なプロットや会話によって否応なくレクターの怪物性を高めていく。観客はその超人的な存在に圧倒され、身震いするようなスリルを感じることができるのだ。


羊たちの沈黙(特別編) [DVD]
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殺人犯として収監中のレクターは、FBIアカデミーの訓練生である若き女性主人公クラリス・スターリング(ジョディー・フォスター)に協力を請われ、猟奇殺人事件の犯人バッファロー・ビルの逮捕のために、獄中からアドバイスを行う。捜査が難航するなか、犯人逮捕への手がかりを提供できるのは、哲学から宗教、美術史まで広範な分野の知識を持ち、超人的な思考能力や記憶力を発揮する精神科医レクターだけなのだ。クラリスはレクターに接触し、犯人に関する情報を得ようと試みる。レクターはみごとに犯人の特徴を言い当て、クラリスは少しずつ犯人に近づいていく。映画は、レクターとバッファロー・ビル、ふたりの怪物を中心として進みながら、フィクションでしか体験できないであろう「完全な悪」を描きだしていくのだ。

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およそ120分の祝祭 最新映画レビュー

伊藤聡

誰しもが名前は知っているようなメジャーな映画について、その意外な一面や思わぬ楽しみ方を綴る「およそ120分の祝祭」。ポップコーンへ手をのばしながらスクリーンに目をこらす――そんな幸福な気分で味わってほしい、ブロガーの伊藤聡さんによる連...もっと読む

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コメント

dskmdskm 『悪は陳腐である、とアーレントは喝破した。巨大な悪を為すのはモンスターのごとき悪人ではなく、どこにでもいる凡人だ』 3年以上前 replyretweetfavorite

sacon 陳腐な悪について。" 4年弱前 replyretweetfavorite

mnblue_ この悪党がすごい!| レクター博士は"筋の通った完璧な"悪だから、ちょっと憧れちゃうのかもしれない 4年弱前 replyretweetfavorite

otuka_T これは気になる作品 4年弱前 replyretweetfavorite