福岡吉本の旗揚げ公演には、吉田さんの発案で通常のお笑いイベントとは一線を画した仕掛けが施されていた。
福岡といえば、ラーメン、もつ鍋、明太子。
そして明太子といえば、めんたいビートである。もちろん、めんたいロックでもかまわない。知らない方はググってみよう。
博多の街は1970年代、日本のリヴァプールと称されていた。
それぐらい福岡は音楽が盛んなのだ。
そんな風土に加えて、時は1990年、いわゆる「イカ天」を起爆剤とした空前のバンドブームであったから、福岡の都心部に軒を連ねていたライブハウスは、人口比率で考えると多すぎるぐらいの数であったにもかかわらず、どこも例年以上に活況を呈していた。
時代の流れ以前に、元々がそんな環境なのだから、福岡で若手のお笑いイベントが浸透するまでにはどう考えても時間がかかる。
やはり福岡のイベントといえば、定番は音楽であろう。
そこで、福岡吉本では旗揚げ公演はもちろん、それ以降も当分の間は、吉田さんが各地のライブハウスに足を運んでスカウトしてきた、腕の立つアマチュアバンドと合同でイベントを打つことにしたのである。
選ばれしバンドの名前は、ザ・パーキング。
ザ・チェッカーズを輩出した久留米市を中心に活動しているアマチュアバンド、という触れ込みだったが、この時に他のメンバーがどう感じていたのかはわからない。
しかし少なくとも僕は、僕らよりひと世代上の、気の良い親戚の兄ちゃんみたいな雰囲気を醸し出していたザ・パーキングに、初顔合わせのリハーサルでひっくり返るほどの衝撃を受けてしまった。
福岡吉本の旗揚げ公演プログラムはこうだった。
オープニング 演奏①ザ・パーキング
ネタ①ワコール青木
ネタ②ひらい凡退
演奏②③ザ・パーキング(ター坊とのミニコントあり)
ネタ③華丸・大吉
ネタ④コンバット満
ネタ⑤ター坊・ケン坊
演奏④⑤ザ・パーキング
ネタ⑥全体コント
エンディング 演奏⑥ザ・パーキング
単純にネタがなかったし、やらせるわけにもいかなかったのだろう。
僕たち芸人のネタ時間は最大で7分とされていた。
全体コントが15分ほどだったから、どれだけ頑張っても僕たちだけでは50分が限界で、せっかくの旗揚げ公演が1時間足らずというのも物足りない。
そこで、ザ・パーキングに6曲も歌ってもらうという、少しいびつな構成となっていたのだが……。
それまで音楽とは無縁の生活を送っていた僕にとって、とにかくザ・パーキングは「普通」という印象だった。
もちろん、それは凡庸というニュアンスではない。
普通に聴いていられたし、普通に口ずさめたし、どの曲も普通に楽しめた。
つまり、僕からすればザ・パーキングというバンドは、テレビやラジオで見聞きするミュージシャンと全く遜色がなかったのである。
これで、アマチュアなんだ。
これで、プロじゃないんだ。
その道の専門家に聞けば明確な理由があるのだろうし、生まれて初めて目の当たりにする生演奏の迫力に圧倒されたというのも十分にあっただろう。
畑違いが甚だしいこともわかっている。
しかしそれでも、この世界で「売れる」ということの難しさをザ・パーキングからあらためて突きつけられたような気がして、僕は以前にも増して気持ちが萎えてしまった。
じゃあ、プロのミュージシャンってどれだけ凄いんだろう?
じゃあ、プロの芸人ってどれだけ面白いんだろう?
目指すべきレベルが何一つわからないまま、稽古に明け暮れるしかない毎日。
雲を掴むような話という比喩があるが、たぶん雲を掴めば水滴の気配を感じることぐらいはできるハズだ。
雲すら掴めない話となると、それはただの日常である。
そんな日常を積み重ねたところで、僕は何を掴めるのかな?
そして迎えた、旗揚げ公演当日。
場所は九州一の繁華街、天神にある家電量販店の最上階。
何の因縁なのだろう、ここから長らくの間、東京や大阪といった福岡から見ての「東方」を伺い知ることができなかった、そんな福岡芸人の苦悩を暗示する「マルコポーロ」という名前のイベントホールで、僕は芸人としての産声を上げた。
前売り500円、当日800円。
100席ほどの客席を埋めたのは7人からチケットを買ってくれた友人・知人ばかりで、バンド部分はともかく、お笑いの部分は学芸会の延長に近い公演だったと思う。
しかしそれでも、温かすぎるお客さんというか、言ってしまえば客席は絶対に誰かの身内なのだから、全員がオーディションの時以上に笑いが取れたし、全体コントも嘘みたいに好評だった。
そして何より、この「音楽とお笑いの融合」という、当時の福岡では初となる画期的なイベント形式に、地元のマスコミがこぞって飛びついてくれたことが大きかった。
旗揚げ公演で浴びた客席からの拍手と笑い声は、稽古場で芽生えた全てのわだかまりを洗い流すのに十分だった。
それだけでも御の字だというのに、翌日から地元のマスコミによる取材依頼が福岡吉本に殺到、旗揚げ公演からすぐに、僕たちを取り囲む環境が激変したのである。
実はそれまでにも、僕たちは福岡のローカル番組やタウン誌、新聞等に何度か取り上げられていた。
しかしそれは「芸人を目指す地元の若者たち」というような、いわばニュース素材としての扱いで、そんなものは各マスコミも一度やれば十分、継続性のカケラもない露出だった。
取材に来てくれた人たちは決まって「本当にこの子らが芸人になれるの?」といった訝しげな表情を浮かべていて、当然、何の報酬も得られなかったし、僕もそんな取材に有り難みを感じることは皆無だった。
しかしそれはお互い様の感情だったことだろう。
あのヨシモトが福岡にやって来たっていうから、仕方なくキミたちを取り上げているんだよという、笑顔の奥に透けて見える記者さんの気怠い空気感は、そんな取材に対する苦手意識を僕に植え付けるだけだった。
おそらく、有料イベントであった旗揚げ公演を終えたタイミングで、吉田さんが正式にアナウンスしたのだろう。この日を境に、僕たちは福岡吉本の若手芸人として、まだまだ卵とはいえ曲がりなりにもプロの芸人として、数々の取材を受けることになった。
すると記者さんの笑顔の奥は「取り上げてやる」から「取り上げさせてね」に変わっていて、ここまでわかりやすい差がプロとアマチュアにあるんだなあと、僕は逆に感心した。
それと同時に、福岡吉本に出入りするようになって初めて、僕はほんの少しだけの優越感を味わった。
地元での露出が一気に増えた僕たちは、インターネットが普及する気配もなかった情報過小という時代背景も手伝って、まあ、ごく一部の間ではあったものの、日を追うごとに注目を集めていると、取材に来てくれた記者さんから聞かされた。
しかし、別に街で声をかけられるわけでもなかったので、何の自覚もなかったが、その日は突然やって来た。
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