村上春樹が新作で描こうとしたモチーフは?
男が、女について一つの感慨に到達するのはいつだろうか。好きな女性に振られた少年期の思いをその感慨として一生抱える男がいてもいい。普通はしかし、「男」と言える年代になり一人の女に全面的に関わってボロボロになる時だろう。あるいは「もう俺はこの女でよい」と思えた時だろう。男はそう無理して思う。女と関わって傷つくのも女への諦念も男の未熟さである。しかも未熟さは以降も克服されず、中年から老年にぶざまなさまを晒し、また女に叩きのめされる。あるいは日々、叩きのめされ続ける。
泣くこともできず、酒をあおる男もいる。偶然がそっとその男を処分することもある。ひとりの男がひとりの女に向き合えば、いずれこてんぱんにされる。なんとか生き延びて人生の半ばを越え、老いの風景が見え始めてなお、跪く。それでも女にすがりつく。そういうものだ。その愚かさを正確に教えてくれるある種の文学が存在する。それがまた一つここにある。村上春樹の新作短編集『女のいない男たち』である。
「女のいない男たち」になることはたやすい。すっと女は失われるからだ。連作最後の表題作が解説的に告げている。
ある日突然、あなたは女のいない男たちになる。その日はほんの僅かな予告もヒントも与えられず、予感も虫の知らせもなく、ノックも咳払いも抜きで、出し抜けにあなたのもとを訪れる。ひとつの角を曲がると、自分が既にそこにあることがあなたにはわかる。でももう後戻りはできない。いったん角を曲がってしまえば、それがあなたにとっての、たったひとつの世界になってしまう。その世界ではあなたは「女のいない男たち」と呼ばれることになる。どこまでも冷ややかな複数形で。
この短編集には、村上春樹には珍しく「まえがき」という解説があり、取り澄ました弁明が語られている。なぜ、「女のいない男たち」を描くのか。
どうしてそんなモチーフに僕の創作意識が絡め取られてしまったのか(絡め取られたというのがまさにぴったりの表現だ)、僕自身にもその理由はわからない。そういう具体的な出来事が最近、自分の身に実際に起こったわけではないし(ありがたいことに)、身近にそんな実例を目にしたというわけでもない。
たぶん、嘘はない。私小説的な実態を問うことに意味はない。作者の現実生活で、目に見える形で「女のいない男たち」という事象があったわけでもないだろう。しかし、村上春樹的なシュールリアルなパラレル世界では、それはあっただろうし、彼の文学の一つの必然的な帰結でもあった。
「女」を失った男たちの怒り
現実の作者が「女のいない男たち」ではないなら、「女のいない男たち」とはなにか。こう続く。
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