還暦をすぎて新たなハマり役が
2005年11月、蟹江敬三(2014年3月30日没、69歳)の主演映画『MAZE』(岡田主監督)が、ロケ地となった高知県で先行公開された(全国公開は翌年)。この時点で蟹江は61歳。俳優としてのキャリアはすでに40年を越えていたが、意外なことに、映画主演は初めてのことだった。
このとき彼が演じたのは、田村弦次郎という高知の漁師だ。物語は、両親を事故で亡くした小学生・堂本裕太(大沼健太郎)を祖父の弦次郎が引き取るところから始まる。こう書くと、2013年に放送されたNHKの連続テレビ小説『あまちゃん』を思い出す人もいるかもしれない。そう、蟹江は『あまちゃん』でもまた、ヒロインの祖父である漁師を演じていた。
『MAZE』と『あまちゃん』は、故郷を捨てて上京した娘の存在といい、東京育ちの孫が母親の郷里になじんでいく過程といい、重なる部分も多い。だが、物語が志向するものはそれぞれ違うので、蟹江の演技も同じ漁師役とはいえ異なる。孫との接し方でいえば、『あまちゃん』の天野忠兵衛は陽気な性格で、遠洋での長い漁から帰るたび、孫のアキ(能年玲奈)に行った先々での体験を語って聞かせる。それに対し『MAZE』の弦次郎は、孫の裕太にどう接すればいいのかわからず、つい声を荒らげたり手を上げたりしてしまう。いずれもきちんと役がつくられ、その演じ分け方こそ蟹江の真骨頂と思わせる。
不思議なことに、『MAZE』以降、蟹江には漁師役での出演作が目立つ。『あまちゃん』のほかにも、最後の出演映画となった『リトル・マエストラ』(雑賀俊郎監督、2013年)もそうだったし、さらには『MAZE』の岡田主が撮影を予定していた新作映画でも、ふたたび漁師役で出演依頼を受け、快諾していたという。蟹江の出演作品を顧みれば、どちらかといえば都会的なイメージが強く(本人も東京出身だった)、自然に立ち向かっていく類いの人物はほとんど演じていないはずなので、還暦をすぎて漁師がハマり役になったのは、新境地を拓いた感もある。
もっとも蟹江は以前より、悪役も善人役も、シリアスな役もコミカルな役もこなし、その演技の幅の広さには定評があった。たとえば1979年には、日活ロマンポルノ『天使のはらわた 赤い教室』(曽根中生監督、石井隆原作)と、柳町光男監督の劇映画デビュー作『十九歳の地図』(中上健次原作)と、まったく毛色の異なる作品に出演している。前者ではブルーフィルムで見た女を追い求める、夢想家タイプのポルノ出版社の社長を演じたかと思えば、後者では、若者に交じって新聞販売店に住みこむ“愚図な三十男”を演じた。
「性格俳優」「名バイプレイヤー」など、蟹江を評する言葉は色々あるが、じつは当の本人はそうしたレッテル貼りを拒んだ。《どんな役でもやれるけど、でも、何をやっても「蟹江らしいね」と言われる俳優。そんな存在を目指して、この40年間やってきたつもりです》(『婦人公論』2005年9月22日号)とは、前出の『MAZE』の公開直前のインタビューでの発言である。
べつのインタビューでは、主役と脇役で演技の違いについて聞かれ、「変わらない」と即座に答えたうえ、「自分が出るシーンは自分が主役」と断言している(『現代』1986年4月号)。
内気な少年を芝居が変えた
そんな蟹江だが、もともとは他人とほとんどしゃべれない内向的な少年だったらしい。少しは外で遊んできなさいと母親に言われて、たまに友達の家へ誘いに行っても、大きな声が出せず結局そのまま家に帰ってくるということもあったそうだ。それが、男子だけの工業高校に入るとしだいに殻を破り、変わっていく。
決定的だったのは、高校2年生のとき、ひょんなことから卒業生を送る謝恩会で芝居に出演したことだ。学校生活をパロディ風にした芝居で、先生の役を演じたところ、それがすごくウケてしまったという。
《自分の一挙一動に大勢の人が拍手をくれたり、会場が笑いの渦と化したり。それはもう、それまでの人生では経験したことのない、たまらない快感で、「俺には演技の道しかない!」とその場で思い込んでしまったんですね》(『婦人公論』2005年9月22日号)
突如湧きあがった演じたいという気持ちは収まらず、工業高校をやめて、演劇部のある普通科の定時制高校に転校したほどだった。結局高校にはトータルで4年間通った。1964年に卒業後は、シナリオライターや映画監督にもなりたくて大学に進んで勉強するかどうか迷ったが、何としても早くそういう世界に入りたいとの欲望が勝り、劇団「青俳」に入団する。
蜷川幸雄の初演出作品で主演
青俳の9年先輩には蜷川幸雄がいた。蟹江によれば、青俳の入団試験を受けたとき、劇団内では「あいつはダメだ」という意見が多数だったのを「面白いから入れよう」と推してくれたのが蜷川だったらしい(『週刊ポスト』2014年1月17日)。
のちに国際的な舞台演出家となる蜷川だが、もともとは俳優として劇団に入った。彼が初めて演出を手がけたのは1967年、ドイツの劇作家の戯曲や詩を下敷きにした『ヴォルフガング・ボルヒェルトの作品からの九章』と題する作品だった。劇団の稽古場にて、劇団員と親しい人だけを呼んで上演されたこの芝居で、蟹江は主演を務めている。
このとき蟹江は映画出演のオファーを受けていたにもかかわらず、「キンちゃん(蜷川のあだ名)とやりたいから」と芝居のほうを選んだ。蜷川は、「ああ、蟹江ひとりいれば芝居はできる」と思ったという(蜷川幸雄『演劇の力』)。