第1章 こうして僕は大学に行かなくなった vol.1

起業やボランティア活動に興味があったわけはなく、むしろ「まわりは馬鹿な奴ばっかりだ」と見下していたーー そんな一人の東大生が、話題の「教育系NPO代表」になったのはなぜなのか。無料の授業動画サイト「manavee(マナビー)」を立ち上げた花房孟胤さんが、その設立、運営、そして現在に至るまでの紆余曲折を赤裸々に語ります。4/25(金)、『予備校なんてぶっ潰そうぜ。』(集英社)の発売にさきがけ、たった一人で教育を変えようと思い立った男の泥臭い奮闘記をお届けします。

はじめに

 2013年5月、朝日新聞の「ひと」欄に掲載された僕は、次のように紹介された。

 大学受験生を対象にした授業動画3,916本をウェブサイトで無料公開している。教えているのは、ほとんどが大学生だ。

 二年半前、受験応援サイトmanavee(マナビー)を始めた。―全受験生に公平な勉強の機会を―。呼びかけに25大学の学生ら約200人が応じ、得意科目を収録してきた。離島の受験生や経済的に予備校に通えない浪人生を含め受講生は1万4千人を突破した。

「ネットに受験用の動画が10万本あって、だれもがいつでも受験できる社会にしたい」

 兵庫県の母子家庭で育った。東大に入り、大都市圏の裕福な子ほど専門的な受験指導を受けていることを痛感した。地理的な、経済的な環境の差を飛び越える手段として無料サイトを思いついた。

 幼い頃から「空気が読めない」と言われた。自己診断は「リスク感覚に弱く、バランス感覚がない」。だからなのか、時々「行動力がある」とほめられる。みんなが変だなと思いながらも受け入れている日常をつつきたくなる。

 もてなかった高校時代のバレンタインデー。同級生も同じく居心地が悪そうだ。2月14日が煮干しの日と知り、この日の意味を変えてやれと朝から煮干しを配った。

 今春9人から合格報告が届き、うち5人がマナビーで教えたがっている。「学んだ人が教える側に回る、この循環がたまらなくうれしい」

文・写真 金成隆一

 「花房孟胤(はなふさ たけつぐ)24歳、教育系NPO代表」新聞などに載るとき、僕は大抵こんなふうに要約される。間違ってはいない。これが今の僕だ。

 高校生の頃の僕なら、「ダサい奴」と一笑に付して、そんな人の記事は読み飛ばしたはずだ。キョウイクが、コドモタチが、そんなことを言っている連中は偽善的だし、もっと世の中には解決すべき問題がいっぱいある。ボランティア団体なんて作っても世の中何も変わらないのに、何をそんなに一生懸命にやっているんだろう。格好悪い。当時の僕なら言ったであろう、軽蔑の文句がどこからともなく聞こえてくる気がする。

 小学校低学年の頃、僕は科学者になりたかった。具体的に科学者がどんな仕事をする人なのかはもちろん知らない。単に、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のドクことエメット・ブラウン博士が大好きだったからだ。繰り返し映画を見ては、ドクみたいに頭が禿げて白髪になる日を心待ちにしていた。

 小学5年生になるあたりから、僕は物理学者になりたい、と思うようになった。ブルーバックス・シリーズの「10歳からの相対性理論」の挿絵に入っていたアインシュタインの写真が、そのままエメット・ブラウン博士だったからだ。その本を何度も読み直して図にまとめて、「光速の90%以上の速さで移動すると時間が遅れる」というのはどういうことなのか、得意満面にクラスメイトに説明してまわった。

 中学の時、タイムトラベルが現実的でないという事実を知ったこと、さらには物理の中間テストの出来が芳しくなかったことが決定打となり、僕は物理学者への道を諦めた。その後ひと通り初恋や中二病なんかも済ませて、高校生になる頃には、僕はすっかり頭でっかちなインテリ野郎になっていた。

 インテリというのは、ロシア語のインテリゲンツィアの略称で、日本語では知識人という意味になる。学問を修めていろいろな知識を持っているけれど、理屈をならべるばっかりで実際になにか行動することはない。彼らは知識を提供するのが仕事で、泥臭くなにかをやるのは自分とは別の人の役割だと考えている。

 「でもさぁ…」、何か野心的で新しい提案をする人がいたら、まずは頬杖をつきながらこう答えよう。インテリってのはそういうもんだ。もちろんそのあとの議論では、頭の中にインプットされているはちきれんばかりの知識と事例を披露しながら、その野心的な提案者の意見を華麗に論破していこう。世の中はそんなに簡単に変わるものではない。最終的には、口をつぐんだ彼にも幾分かの同情を示しながら、物憂げに「まあ難しいよね」と含みのある暫定解を提示して議論をしめる。これが、インテリのお手本だ。

 僕は、そんな憎ったらしいインテリ野郎になることが、生きづらい人生をどうにか生き抜く唯一の方法だと思っていた。だから、僕は元々自分で起業したいとか考えたこともなかったし、ボランティア活動に興味があったわけでもない。ただ、「僕のまわりは馬鹿な奴ばっかりだ」と見下しながら、ひとりニヒルに笑う人生を送っているはずだった。

 そんな僕がどうして、“教育系NPO代表”なんかになってしまったのか、これから正直に話してみようと思う。それは、周りの人に支えられながら成長していく主人公のストーリーに見えるかもしれないし、納得がいかない自分の人生をなんとか正当化させようとする言い訳に聞こえるかもしれない。どう取られるかは分からないけれど、とりあえずいろんなことを正直に話そうと思う。これが、かつての僕がそうであったような、インテリ野郎の卵に届く機会があれば、いいと思う。


第1章 2009年4月~

■僕は変わり者?

 2009年4月、僕は大学生になった。

 本郷キャンパスの合格者貼り出し掲示板の前、一年前にはなかった自分の番号を確認して、少し長く続いた僕の受験戦争は終わった。

 現役時代、僕は自分の合格を信じて疑わなかった。神戸から東京へ合格発表の確認に向かう新幹線の中では、隣の席で不安に駆られて泣き出しそうな友人を元気づけていた。結果は無惨なもので、合格したのは友人だけだった。入学手続きで忙しい彼に迷惑をかけたくなかったから、僕は一人で静かに帰った。

 それから一年遅れて、僕も大学生になった。

 第一志望は現役のときから東京大学の文科三類だった。それには僕なりに理由があったのだ。大学に入るまで、僕に付けられるニックネームはどこに行っても概ね同じで、変人だとか変な人だとか、その類だった。

 僕は常々、人は初対面の反応で二種類に分けることができると思っている。初対面で僕に吹き出す奴と、吹き出さない奴だ。けれど、だれかが「変わり者」みたいなレッテルを貼られるのは仕方がないことで、コミュニティの構成員のうちひとりかふたりは、必ずそういった役割を引き受けなければならない。それは理解している。

 ただ、僕が毎回ハズレくじを引かされることに我慢がならなかったし、社交的で気遣いのできる女子が「いい意味で」とフォローしてくれても、全体の調和から外れて微妙に異物扱いされている息苦しい気持ちは変わらなかった。

 だから、僕にとって大学は希望だった。新しいコミュニティで、新しいポジションを見つけるチャンスだったからだ。

 母校の先生には申し訳ないけれど、僕の高校時代の国語の授業はつまらないものだった。しかし一回だけ、飛び抜けておもしろい授業があった。正確にはおもしろかったのは授業ではなく文章で、それは梶井基次郎の「檸檬」だった。国語の先生がなにやら解説していた気がするが、僕はその眠たい声を無視して、夢中で物語を追った。物語が終わっても、頭の中ではずっとその話しが尾を引いて、すっかり僕の物の見方を歪めた。

 僕は、文学とかは全然分からなかったけど、自意識を引きずったこんな面倒な文章を書く人たちは、こぞって東大の文学部にいるような気がして、そこに行こうと決めた。根拠としてはとても薄弱だけど、日本で一番変わり者が集まっている場所に行けば、僕はその中ではごく標準的な位置づけになるはずだし、コミュニティの変人ポジションからも脱出できるに違いないと思ったからだ。こうして僕は東大を第一志望に決めた。

 しかし、大学受験に関して言えば、僕にはあまり才能がなかったのだろう。恵まれた環境とゴリ押しの努力でなんとか一回の失敗だけで入学できたものの、僕は軽やかに点数を積み上げて楽々合格点を飛び越えていくようなタイプではなかった。周りにはいくら努力しても勝てない相手がたくさんいたし、能力の限界も実感した。

 それに、そもそも僕は受験という仕組み自体が大嫌いだ。それは、僕が試験で点数を取るのがあまり得意ではないから、という以上に、何より一方的に押し付けられる基準が気に喰わなかったからだ。なぜ数学なのか。なぜ国語なのか。英語の熟語を暗記するのは得意でなくとも、その代わりに英語で楽しくおしゃべりするのが得意なら、それは評価に入らないのか。けれど、当時の僕には社会制度を覆すような知恵も力もなかった。だから、黙って自分を押し殺して、その仕組みに従う他はなかった。

 とりわけ、センター試験の国語は苦行そのものだった。登場人物の心情を五つの選択肢から選んでマークシートを塗りたくる作業を続けていると、あるはずもない天井に固定されたカメラから監視されている気がしてきて、僕の背後を人が通り過ぎるたびに、両手で首を隠した。完全に受験ノイローゼだった。大学にさえ行けば、そこには自由が広がっているはずだ。そう自分に言い聞かせて、こんな馬鹿げた競争には二度と参加するまいと、心に誓った。

 大学では、自分で勉強したいことを好きに選べたし、その勉強に時間も割けた。そこでの勉強はお受験のそれとは質的に全く異なるもので、僕の性には合っていた。

 僕が最初に本格的にコンピューターと向かい合ったのは、1年生の冬だった。ロダンの「考える人」の3Dデータを学生に与えた教授は一言、「これを使って、好きなものを作ってみなさい」とだけ言った。その挑戦的な課題を前にして、僕の負けず嫌いな性分が刺激された。

 「学期の最後には審査員を呼んでコンペ形式で採点する」とも告げられると、僕にとってその競争は、もはや負けることは許されない戦いのように思えてきた。そのままクリスマスも正月も返上して、インターネットの情報を頼りに3Dソフトをいじくりまわした。高校まで寮生活を送り社会から隔絶されていた僕にとって、それが、コンピューターとの最初の出会いだった。

 コンペでは無事、僕たちのチームが優勝を勝ち取った。そのときに審査員を務めていた、とある東大の研究室から独立したベンチャーの社長に声をかけられて、僕はそのままCGを使ったバイトをすることになった。

 僕の大学生活は、一般的に思い浮かべるようなサークル活動やコンパで充実した生活ではなかったけど、満足のいくものだった。

 ただ、コミュニティでは相変わらずハズレくじを引くことになった。大学に入学すると、新入生はそれぞれ30人ほどのクラスという単位に割り振られ、初めての学友はそこで作ることになるのだけど、率直に言って僕はがっかりした。そこにいた人たちは、僕が期待したような奇人変人の集まりでは到底なく、世間的にも真っ当で安心できる人たちばかりだった。結局ここでも、僕のニックネームは「変な人」に落ち着いた。


どこに行っても変わり者扱いをされた花房孟胤さんが、いかにして無料の授業動画サイト「manavee(マナビー)」を立ち上げたのか。大学受験に厳然と存在する地理的・経済的な格差をどのように打ち破ったのか、その紆余曲折の冒険を、ぜひお手にとってご覧ください。

予備校なんてぶっ潰そうぜ。
予備校なんてぶっ潰そうぜ。

この連載について

予備校なんてぶっ潰そうぜ。

花房孟胤

起業やボランティア活動に興味があったわけはなく、むしろ「まわりは馬鹿な奴ばっかりだ」と見下していたーー そう考えていた一人の東大生が、話題の「教育系NPO代表」になったのはなぜなのか。無料の授業動画サイト「manavee(マナビー)」...もっと読む

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yhk38 煮干しの日に煮干しを配る例はままある。 6ヶ月前 replyretweetfavorite

gaen2525 こんなのもあるhttps://t.co/oTengDb53e 約2年前 replyretweetfavorite

nishinojunji 誰だか知らないけど読ませる文を書ける人だ。つい読んじゃったよ。 https://t.co/VVZwulIrha 約4年前 replyretweetfavorite