往復路 — 私は、同じ線を二千四百回なぞってきた

一日に必ず2回通る道、通勤路……。
駅から家までの世界を何度も通り過ぎる内に、私たちは外の世界への興味をなくしてしまっているのかもしれません。

Twitterのフォロワー6万以上、日々トガったツイートで人々を魅了する鬼才、ダ・ヴィンチ・恐山。ウェブの世界を飛び出して大喜利やマンガでも活躍 する彼が、品田 遊(しなだ・ゆう)として、初の小説連載をcakesで開始しました。(連載をまとめた単行本はリトル・モア社から刊行予定)

 エジプトのピラミッドは、とても大きく、美しいと聞く。でも、私はそこへ訪れることなく、一生を終えるのだろう。今後エジプト旅行に行く可能性がないわけではないけれど、その確率はずいぶん低い気がする。それに世界には美しく、私が足を踏み入れることはついにないであろう場所が無数にある。

 八王子に引っ越し、衛星放送のチャンネルに加入してからは、海外のドキュメンタリー番組ばかり見ている。ファラオとピラミッドの謎を巡る番組が終わり、次に始まったのは、世界に生息する動物を紹介する番組だ。

 オーストラリアではたまにワニが人を襲うと専門家が言った。私の頭のなかで、水面から目をのぞかせ、鼻からぶくぶくと泡を出すワニがイメージされる。あんなものが近所にいる生活って、どんなだろう。猛ワニ注意の看板があるのかもしれない。猛でないワニとは。次はアフリカの特集。どこかの部族が土を掘り起こしてアリを捕まえ、蜜が溜まってビー玉ほどに大きく膨らんだ腹をおいしそうに頬張っている映像が映し出された。思わず味を想像してしまう。子どものころ、近所に生えていた木イチゴを食べたことがあるけど、あんな味がするのだろうか。もっと酸っぱいような気もする。よくわからない。蜜を味わった部族の少年は、そのあと抜け殻になったアリの死骸をプッ、と吐き出していて、あ、小さいぶどうを食べる私と同じ動作だ、と親近感を抱いた。

 世界は広い、とよく言われる。その反面、イッツ・ア・スモールワールド、とも言われる。その日の夜、ベッドの中で世界の広さについて考えた。

 私が明確にイメージできる「世界」は、このワンルーム。アパートから駅までの道のり、駅周辺の、よく行くスーパー。服屋。本屋。会社と、会社がある吉祥寺駅周辺のいろんな店。あと実家。昔行っていた学校。修学旅行で行った京都。海外には行ったことない。以上。あれ、思ったより狭いな、と考える前に寝ていた。

 次の日の朝、駅に向かうバスの中で、世界が一枚の大きな白紙だったら、と想像した。私が生まれてから今までの、平面上の動きの軌跡をそこに描いていく。日本から出たこともない私の軌跡は紙にくらべてとても小さい。そして同じ線を執拗になぞる。何度も、何度も。おそらく完成図は、白紙に小さなスチールウールを落としたような見た目になるはず。それが私の世界のすべてだ。世界は私ひとりが歩くには広すぎる。

 昨夜のドキュメンタリー番組に出ていた冒険家を思い出した。彼の軌跡を白紙に描いたら見違えるだろう。紙の端から端へ、なめらかな曲線をスッと引く。西から東へ。東から北へ。肩まで使ったダイナミックな作図だ。

 バスを降りて、八王子駅へ歩いた。見慣れた光景が広がる。というより、家を出てからずっと、見慣れた光景が広がり続けている。改札へ続く階段を登った。ここを通るのは今日で何度目だろうか。四年前に引っ越してからほぼ毎日だから、少なくとも千二百回は超えている。その数の多さに、登りながら軽いめまいがした。あ、帰り道でも通るのか。だから二倍して二千四百回。

 二千四百回。私は、同じ線を二千四百回なぞってきた。紙だったら底がやぶけているところだけれど、この階段は頑丈なコンクリートでできていて、ヒビ一つ入らない。きっとここは、私が何千往復もすることを前提に作られた施設なのだ。

 改札を前にして定期券を取り出す。取り出すタイミングは、改札の五歩手前。定期券は八王子―吉祥寺の印字が薄く消えかかっている。撫でるような動きで定期券を改札にかざし、駅構内に入った。こういう動作に慣れれば慣れるほど、私がピラミッドを背にして立っているビジョンに靄がかかる。それは特に、悲しいことではないはずだとも思う。だって私は、たいしてピラミッドに興味がない。

 ホームのベンチに座って電車を待つ。掲示板の路線図が目に入った。色とりどりの線がごちゃごちゃと入り乱れ、絡み合っている。こうして見ると、世界どころか近所も行ったことのない場所ばかりだ。もう四年も八王子に住んでいるけれど、隣の西八王子駅で降りたことが一度もない。通勤は反対方面だから。

 西八王子駅前に噴水があるのかどうかとか、最寄りのハンバーガー屋はどこにあるかとか、私はそういうことを何も知らない。なまじドキュメンタリー番組でよく見ているぶん、エジプトの遺跡のほうが馴染み深い気さえする。少なくともディスカバリー・チャンネルが西八王子を特集しているのを見たことはない。私にとっては西八王子のほうがよほど秘境だ。

 かといって、もう反対側の豊田駅にも用があったことはない。うとうとしていたとき、八王子駅と間違えて降りてしまって慌てて車内に戻ったことが一度あるだけ。私にとっての豊田駅は「八王子ではない、紛らわしい駅」でしかない。「偽八王子」に改名してくれても構わないくらいだ。

 さらに路線図を目で追う。そのとなりの、日野駅もそうだ。間違えて降りたことすらないはず。

 と思ったが、なにか引っかかるものを感じた。

 私は、日野駅で降りたことがある気がする。それも、間違えて降りたのではなく、何か用事があって。

 口に手を当て、んん、と考えを巡らせる。少なくともこの一、二年ではない。それよりももっと前に、何かで。

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品田 遊

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dynamite_ran あのダ・ヴィンチ・恐山か…。> 4年弱前 replyretweetfavorite

nottawashi 首藤さんの感覚わかる〜 4年弱前 replyretweetfavorite