なぜ古い時代の参考書が復刻されたのか
2010年を境に1960年代から1970年代の高校生向け、国語分野の学習参考書が3冊続いて一般書籍として復刻され、話題になった。まず、2009年、高田瑞穂『新釈現代文』が、学芸分野の古典として「ちくま学芸文庫」に収録された。元は1959年に出版された現代文・現代国語の分野の、大学入試向け参考書である。翌年同文庫で古典分野の参考書として、初版1962年の小西甚一『古文の読解』(ちくま学芸文庫)が続いた。自然な流れとして漢文も注目され、初版1977年の加地伸行『漢文法基礎』が学術分野の古典として講談社学術文庫で復刻された。
『漢文法基礎』は当初、現在のZ会の元になる増進会の機関誌『旬報』に1973年から「漢文法基礎」として連載されていたものである。執筆は、匿名の大学教授・二畳庵主人とされていた。1977年の初版、また増補版も増進会の販売なので一般書店にはなく、著者が名著『儒教とは何か』の加地伸行だと明かされたのは復刻に際してであった。
なぜ古い時代の参考書が復刻されたのか。渇望されたからである。この本で受験勉強をした学生が40代を越え、もう一度読んでみたい、学びたいと願ったからだ。それには青春を懐かしく思う思いも混じっている。なかでも『漢文法基礎』の演習には、多数の男妾を囲った宋の山陰公主の故事などが「ポルノ漢文」として含まれ人気があった。珍書扱いもされ古書としても高値を付けていた。残念ながら復刻版ではその部分は削除されているが、当初は「出題がなんであれ、漢文読解の実力さえあれば問題ない」という本書の主旨に沿ったものではあった。
私はこの内、高田瑞穂『新釈現代文』と小西甚一『古文の読解』を学生時代に知っていた。私が高校三年生だったのは、1975年から1976年にかけて。振り返って思うのだが、この時代の学習参考書は、1979年から始まった共通一次試験より前の時代の知的気風を残す点に特徴がある。あの時代の受験生の知的水準が時代を超えて「古典」を生み出すことになったのだろう。
刊行より一年早く高校を出ていたため、私が加地伸行『漢文法基礎』を知ったのは復刻によってである。53歳になっていた。そして驚嘆した。呆然としたと言ってもよい。日本語について長年悩んでいた答えが、その答えに至る理路を含めて、くだけた口調で描かれていた。それは、「日本語について」であり、「漢文について」ではない。漢文の伝統は、本書にも明記されているように日本語の伝統そのものである。
さて、高校における漢文という科目は、中国古典を読む科目ではない。ここのところをまちがえないようにしてほしい。あくまでも、過去の日本人が、中国の古典をどのように解釈し、どのように読んできたかということの追体験なのである。
追体験の意味合いについては、杜甫の詩『春望』の「国破山河在 城春草木深」を例にして語られている。「国破レテ山河在リ、城春ニシテ草木深シ。」としてよく知られた詩句だが、訓は簡単にはいかない。
しかし、早くも問題が出てくる。というのは、「国破れて」は、まずまずふつう「くにやぶれて」と読めるであろう。ところが「城春にして」はどうであろうか。これを必ず「しろはるにして」と読むとは限らない。これを「じょうしゅんにして」と読んでも、誤りとは断定できない。
「城」を「しろ」と読むか、「じょう」と読むか。問題となるのは、杜甫が「城」として表現しているのは、姫路城や松本城といった「城」ではないためである。
ところが中国では「城」とは、もっと親しい意味の、いわば「わが町」であって、日本的「私の城下町」とは異なる。とすると、杜甫が「城春草木深」と絶唱するとき、あそこには八百屋があった、ここにはマージャン屋があった、という生活実感を込めているわけである。戦乱以前の過ぎし日の、人々の楽しかりし場所というイメージがあるわけである。だから、そういうイメージを生かすとすれば、「城」を「まち」と読むほうが的確となる。
「城春草木深」をどう読むべきか。既決に見えるこうした問題こそが漢文の学習に問われている。「中国の古典をどのように解釈し、どのように読んできたかということの追体験」として漢文を理解するなら、この詩句を日本人が「しろ」と読んできたことを配慮せざるをえない。そこで「しろはるにして」と読むことになる。
音読みと訓読みの規則なんてない
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