「お前は向いてへんわ。もう帰れ!」
福岡吉本の稽古場で、所長の吉田さんから何度ぶつけられたかわからないこの言葉。
その度に、僕は自分の心が意固地な殻でじわじわと覆われていくのを、どこか他人事のように感じていた。
旗揚げ公演まで残り一ヶ月。
この時点で、福岡吉本の所属芸人は竹山、田中、羽田さん、サロン、僕と、オーディションの本戦メンバーで吉田さんから声をかけられた平井、そして事務所への直談判が半分実った青木さんの、計7人だった。
平井は僕らと同じ年の、とにかく台詞覚えの悪い男だったが、何事にも動じない明るい性格と見た目の爽やかさを吉田さんに買われていた。
一方、青木さんは僕らより5つほど年上の、慶応大学を卒業して大手下着メーカーの福岡支社に勤務していたサラリーマンで、標準語の喋り口調が妙にこなれた大人だった。
さすがに現役の社会人ということで、並々ならぬ決意を持って事務所に押し掛けていたようだが、しかし吉田さんにしてみれば、そんな安定した生活を捨ててまで福岡吉本に来られても困るというか、そもそも吉田さんは芸人を目指すなら遅くとも22才までという持論の持ち主だったから、もう一度考え直した方がいいという説得に回っていて、それでも退かない青木さんは、ならば絶対に会社を辞めずに、今の仕事を最優先させるという条件で、福岡吉本に所属することを特別に認められていた。
全体コントの稽古は曜日を問わず、日中から深夜に及ぶ。
青木さんは当然、仕事の都合で参加できない。
よって、旗揚げ公演で青木さんはネタの出番だけということは早々に決まっていた。
全体コントの出演者は6人。
福岡吉本のメンバーも、残り6人。
これ以上、所属芸人は増える気配がなかったし、どう台本を読み込んでも、コントに必要な最少人数は6人だった。
毎日毎日、連日連夜。
どれだけ罵られようと、
どれだけ帰りたくても、
ひとりでも抜けたら全体コントは成立しない。
旗揚げ公演の目玉とされた演目が、
これだけの稽古を重ねてきた演目が、
たったひとり欠けるだけで、
水泡に帰するのだ。
だから、僕が辞めるわけにはいかった。
むしろ、僕は辞めたくても、辞められなかった。
もちろん、怒鳴られたのは僕だけではない。
僕が一番多かったというだけで、稽古場では全員が毎日のように強烈なダメ出しを食らい続けた。
日替わりの感情ではあるけれど。
そのバイオリズムに個人差はあるけれど。
テレビで見るコントとはかけ離れた、どうにも古臭い台本を持たされた僕たちは、日を増すごとに辟易していた。
全ての時間を捧げることが義務づけられた稽古場で、自分を完全否定される度にムクムクと膨らんでいく、現実逃避の終着駅にふさわしい疑念。
その想いは、いつしか全員が共有する。
僕たちが憧れていた世界は、ここじゃない。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。