世の中には二種類の人間がいる。教える人間と信じる人間だ。
そう書いたのは作家のマーク・トウェインだが、俺もその通りだと思っている。さらに付け加えるなら、教える人間は信じていないことを教え、信じる人間は教えられていないことを信じるものだ。俺は昔、信じる側の人間だった。いや、最初は皆そうなのだろう。俺は純粋で、無垢だったから、言われたことは何でも信じたし、言われてないことも勝手に信じた。テレビ映画の字幕には「字幕」と「字幕スーパー」があって、スーパーが付いているぶんより豪華な字幕が楽しめるのだと思っていた。キリストは平成元年に生まれたのだと思っていた。総理大臣が住んでいる場所=ホワイトハウスだと思っていた。インド人はターバンの中で蛇を飼っていると思っていた。ローマ字をマスターしたら世界中の人とコミュニケーションが取れると思っていた。志村けんはビートルズのメンバーだと思っていた(ドリフターズと混同していた)。シナチクの原材料は割り箸だと思っていた。車のエアバックはボンネットから飛び出して、撥ねられそうな人を助けるのだと思っていた。「脱サラ」を「脱獄」や「脱税」などと同じような犯罪行為だと認識していたので「脱サラしてコンビニを始めました」と言うテレビの中のおじさんを見て「なんで捕まらないんだろう」と思っていた。指名手配中の犯人が「カーキ色のジャンパーを着て」と言っていたのを聞いて「怪奇色」と解釈し「さすが悪人だけあって恐ろしい服を着るな」と思っていた。日本以外の国はアメリカ国とハワイ国だけだと思っていた。『ごきげんよう』は生放送だと思っていた。一九九九年に人類が滅亡すると思っていた。
一九九九年、人類は滅びなかった。
俺は九歳で、ノストラダムスが「七の月」と漠然としか予言しなかったせいで一ヶ月まるまる漠然と怯えて過ごし、しかし何もなく、八月も何もなく、九月も何もなく、十月になって怒りが湧いてきた。今まで信じてきたものたちへ、ふつふつと煮え立つような怒りが押し寄せてきたのだ。ノストラダムスは嘘つきだ。それだけじゃなくて、そもそも世の中が嘘つきなんだ。そんな当たり前のことにやっと気がついたのだった。
それから俺は物事をむやみに信じるのをやめた。毎年サンタクロースに宛ててプレゼントをリクエストした手紙を出すのもやめた。思い返せば、当時から怪しさを感じてはいたのだ。クリスマスの朝、枕元に置かれていたサンタクロースからの返信は日本語だったし、父親の筆跡に似ていた気がする。ラッピングされたプレゼントは髙島屋のテープで留められていた。それでも俺は「両親がサンタだというのだからサンタなのだろう」と信じていた。
子供は矛盾を思い込みで補完できる能力を持っている。ヒーローショーで戦うウルトラマンがテレビで見たときよりだいぶ小ぶりでも、彼が「本物」だと疑わなかったし、なぜ疑わなかったかといえば、お姉さんが「ウルトラマンの登場でーす」と高らかに言ったからだ。ノストラダムスが不発をかまして以来、俺は補完機能を失ったのだろう。
俺は、大学で東洋史を専攻している。史学は埃と嘘にまみれた学問だ。千年以上前に書かれた書物がはたして真実を記しているのか否か、今となって調べる術はない。欠落だらけの資料を寄せ集め、一文字ずつ比較し、検討し、妥当と思われる推測が「史実」として確定される。ときどき考える。もしも千年前の人物が、遥か未来の人間を騙すことを目的として、まったくの出鱈目を巧妙に書き記していたとしたら? それは枕草子の引き写しの際に行われたかもしれない。リグ・ヴェーダの写本に、若者のまったくの思いつきが紛れ込んでいるかもしれない。それを見破る術はもはやなくなっている。経年劣化した真実が朽ちて嘘だけが残れば、もはやそれが本当なのだ。俺はやがて、それを面白いと思うようになっていた。
家から大学までは遠い。小田急線と中央線を乗り継いで一時間半ほどかかる。俺はいつも、その時間をある趣味に充てている。適当な席に腰掛けたら、すぐにスマホを取り出し、ブラウザのお気に入りから「質問箱」をタップする。すると、瞬時に大量の文字列が画面を埋め尽くす。それらは新着の質問の群れだ。質問投稿サイト『教えて質問箱』は、ユーザーが気になること、知りたいことを投稿し、見つけた別のユーザーがそれに答えるウェブサービスだ。平均して一分間に二十件以上の質問が絶え間なく、滝のように流れていく。俺は画面をスクロールしながら、それを眺める。
女性ってみんなイケメンが好きなのですか?
【大至急】この英文を日本語訳してください。
超ひも理論ってなんですか?
アイドルは本当に恋愛禁止なんですか?
結局女性って顔のいい男を選びますよね?
予算10万以内で変えるPCのおすすめを教えてください
エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ。今日もここは代わり映えしない。大口を開けて巣にひしめくツバメのヒナのように、誰かが情報を餌付けしてくれるのを待っている連中ばかりだ。
スクロールするうち、一つの質問が目についた。
「自転車がバックするときの〝オーライ オーライ〟ってどういう意味ですか?」
……こんなこと、少しググればすぐにわかるだろうに。なぜわざわざ人に訊ねて知ろうとするのだろうな。よろしい、答えてやる。俺は「回答する」ボタンをタップした。
1999_angolmoisさんの回答
お答えします。よく「オーライ」のことを「All right」の略称だと考えている方がいらっしゃいますが、それは全くの間違いです。なぜなら、明治以前からすでに存在した呼びかけだからです。江戸時代には、大名が外出するさいに大勢の部下を連れて行列を作っていました。いわゆる大名行列です。そのとき、大名がここを通るぞ、と知らせるため、旗本と呼ばれる部下が先頭に立ち「往来、往来」と叫びました。民衆はそれを聞いて道をあけたわけです。明治維新以降、幕府が解体されてからも、その慣習は残りました。周囲の人間に通行車の存在を知らせるため「往来、往来」と叫ぶ文化だけが残ったのです。それが英語で「大丈夫」をあらわす「All right」と偶然似ていたため、いつしか現在の誤解が生まれたものと考えられます。起源自体は「往来、往来」です。
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