終戦直後に生まれ古希を迎えた稀代の司会者の半生と、 敗戦から70年が経過した日本。
双方を重ね合わせることで、 あらためて戦後ニッポンの歩みを 検証・考察した、新感覚現代史!
まったくあたらしいタモリ本! タモリとは「日本の戦後」そのものだった!
タモリと戦後ニッポン(講談社現代新書)
母親から聞かされた満洲のイメージ
タモリが幼少期より家族からさんざん聞かされた満洲の話は、彼のなかに都市的なものへの志向と田舎への嫌悪を植えつけたような気がしてならない。思えば、タモリの初期のレパートリーにも、田舎者への嫌悪が多分に含まれていた。とはいえ、彼は田舎=地方という単純な図式ではけっしてとらえていない。名古屋人のセコさなどを揶揄したそのデビュー当初のネタからもあきらかなように、たとえ大都市に生まれ育った人間でも、本質的に田舎者と変わらなければ徹底してバカにした。その下地にはやはり、家族が日本について「近所付き合いは窮屈だし、土地も狭い、食べ物はまずい、人間がせこい」とくさすのを聞きながら育った体験があるのではないか。
ついでにいうなら、タモリの育った家族環境もおおよそ一般的な日本人の家庭像からはかけ離れている。というのも、タモリの両親は、祖父母が養子にとった男子と女子であり、おまけに2人の子供を儲けたのち離婚、タモリと姉は祖父母に育てられているからだ。傍から見ればかなり複雑な家族関係で、ともすれば自分の置かれた境遇について湿っぽく語りそうなものだが、そうはしないのがやはりタモリらしいともいえる。
なお、父は離婚してからもちょくちょく実家に顔を出していたという。一方、母は離婚後、再婚を2度繰り返した。この間、母を再婚させるため、祖父母が家で見合いの席を設けたこともあったらしい。おかしいのは、離れて育ったため、母親とたまに会うと一人の女として見てしまうとタモリが語っていることだ。
今、俺がおふくろと言ってるのは、観念的なもので言ってるのかもしれないですね。情緒的なもので言ってるんじゃないんですね。
(「天才タモリのお母さん」、文藝春秋編『ビッグトーク』所収)
1985年当時、母は60歳ぐらいで(息子のタモリも正確な年齢を知らなくて、対談相手の村松友視から「聞きなさいよ」とツッコまれている)横浜に住んでおり、年に2回はタモリと会っていたらしい。このころ母は満洲時代の思い出を随筆に書いていたらしく、会ったときにも17歳か18歳で東京と満洲のあいだを大逃避行した話を一晩語って聞かせたこともあったとか。
うちの祖父さんは駅長で、一緒に専用の車に乗って帰る時に、両方から馬賊が襲ってくる。で、運転士が「危ないから顔を上げないでください」と言うのだけれど、怖いながらも試しにちょっと顔を上げたら、真赤な夕陽が沈んでいて、馬賊の馬がそれを横切ったと、その時、自分はもう女優になった気持でいたというんだけれども、それは後から考えたんじゃないかと思うんだよね。(笑)おふくろはそういう飾りっ気がありますからね。
(「天才タモリのお母さん」)
話の真偽はともかく、母が語った一つひとつの要素は、日本人が満洲に対して抱いていたイメージをなぞっている。たとえば満洲の印象として、夕陽が日本とくらべてはるかに大きく見えたことをあげる人は、前出の市橋明子や赤塚不二夫、俳優の森繁久彌など少なくない。馬賊と呼ばれる、武装した騎馬集団が大挙して押し寄せ略奪をはたらく光景も満洲の各地で見られたものだ。ただし、タモリの家族が住んでいた満鉄付属地ではそのようなことはほとんど見られなかったのも事実だったりする。
本来、馬賊とは人里離れた山塞を根城にした強盗団を指す。だが満洲に住んでいた日本人は、都市部で強盗をはたらいたり、あるいは交通の不便な地方で、通常は農業や商業を営みながらも旅行者が通りかかると略奪者に転じる中国人も含めて、馬賊、あるいは匪賊と呼んでいた。満洲に行くと馬賊の襲撃を受けると多くの日本人がイメージしたのは、このように馬賊についてさまざまな内容が混在していたからだといえる(塚瀬進『満洲の日本人』)。