「社会人」とは何なのか?
ぼくがプロブロガーとして抱いている問題意識のひとつは、「多くの社会人が自分を偽らざるをえない状況の中、生きてしまっていること」です。
ぼくは「社会人」ということばが嫌いです。便宜的に使うことはあれど、基本的には使わないようにしています。
というのも、「社会人」ということばには、なかば暗黙了解的に「社会が求めるように、自分を改変し、偽ることができる人間」というニュアンスがこめられているように感じられるからです。逆にいえば「空気を読まず、自分を貫く『わがまま』な人間」を、社会は「社会人」と呼ばないと思うのです。
「社会人」とは、本当に変なことばです。うちの1歳の娘はこの社会に間違いなく生きている人間ですが、彼女は「社会人」ではないのでしょうか。サラリーマン生活に耐えられずドロップアウトし、のんべんだらりとヒッチハイクの旅を続けているぼくの知人は「社会人」ではないのでしょうか。この社会に、まちがいなく生きているにもかかわらず。
この日本で、「社会人」として認められるためには「社会が求めるように、自分を改変し、偽ることができる」ようにならなければいけないとしたら、それはおかしな話です。少なくともぼくにとっては、本当に生きづらい社会です。
つくっていくべきは、赤ちゃんも、ぼくのようなわがままな人間も、しっかりと「社会人」として認められる、そんな寛容で多様性溢れる社会でしょう。
そういった社会をつくっていくためには、まずは多くの人が、炎上を恐れることをやめ、自分を偽ることをやめ、その上で人とつながれるようになることが必要です。
多くの人が、「そんなの無理だ」「現実を見ろ」とおっしゃるかもしれませんが、それならばなおさら、ぼくは自分の意見を伝えなくてはいけないと考えています。
顔の見えない「社会」に自分を嫌々フィットさせるのではなく、ありのままの自分をまず公開し、それに共感する人たちに集まってもらう。そんな人が増えれば、「社会人」なんてことばは、いずれ死語になっていくでしょう。
自分にウソをつきつづける人生
自分の心にウソをつきつづけて構成された人間関係は、つらいものです。正直に語ることによって構成された人間関係は、ずっと居心地がよく、生産的なものになります。ぼく自身、炎上を恐れず本音を吐き出すようになってからは、気持ちよく生きることができるようになりました。
もちろん嫌われることも増えました。でも、それは前述の通り、自分と合わない人が勝手に遠くに行ってくれたということでもあります。
あなたが炎上すれば炎上するほど社会は多様になっていく、とぼくは考えます。自分を偽る人は、ひとり、またひとりと減っていきます。そして、ありのままの自分のままで社会に溶けこむことができる人が増えていきます。本音を語り炎上するということは、この閉塞感のある、欺瞞に溢れた「社会」を再構築していくことにほかならないのです。
炎上で自分の殻を破る
ぼくは、自分の正しさや倫理観と整合するかどうかは別として、非常識な人間が嫌いではありません。