小学生男子の価値観では、給食を誰よりも早く食べ終えるのはカッコよく、正義だった。しかし同時に、それを言っちゃうのは野暮で、悪ですらあった。みんながそれを直感的に理解していたはずなのだ。口に出すことで失われる価値——粋という概念が、給食早食いには極めて幼稚かつ高度に宿っている。
あの小学生にもその誇りが受け継がれていると良い。俺はそう思って、さらに歩くテンポを上げた。バーイセコ。バーイセコ。バーイセコ。けして走ってはいけない。だって、走るなんてダサいじゃないか。
ギネス記録に挑戦している人はダサい。すごいけど、すごさを遥かに凌ぐ勢いでダサい。同じように、F1ドライバーも、競馬の騎手も、オリンピック選手も、本当はみんな途方もなくダサいのだ。彼らが讃えられるのは、彼らの必死な姿勢の中に、何者にも構わず走る子供の姿を見出しているからではないのか。
だからこそ、大人は走ってはいけない。
一番になりたいなら、一番になりたいからこそ、黙って早歩きするべきだ。
03:21.42
駅が近い。人通りも多くなってきたのが分かる。
今のところ、ゴーストに追い抜かれそうな気配はない。つまり、現時点での最速タイムを更新しているということだ。駅までのルートにおいて、横断歩道を渡らなくてはいけないタイミングは二度ある。その、一つ目の横断歩道が前方に迫っていた。
出勤とマラソンの違いは二つある。まず一つに、出勤ルートには信号機があるが、マラソンにはないこと。もう一つに、マラソンは疲労の果てにゴールが待っているが、出勤はゴールしてからが果てしない疲労の始まりだということだ。まあとにかく、この信号機というものが厄介だ。赤信号に長々と足止めされれば下位に転落することもありうる。
俺は横断歩道の向こうに焦点を合わせた。
信号の色は——青。
今日は運が良かった。歩道を渡ったのち、ちらりと背後を見やる。運悪く赤信号と鉢合わせた過去の俺のゴーストたちが重なりあって立ち尽くしているのが見えた。
06:12.51
駅まで、直線距離にして約百メートル。このまま行けば自己ベスト更新はまず間違いないだろう。しかし気を緩めるわけには行かない。最後の横断歩道が待ち構えている。そこにそびえる信号機の色次第で、俺の明暗が分けられるといって良い。
角を曲がれば横断歩道はわずか二十メートルほど先だ。なるべく軌跡が直角を描くように曲がってから、視線の先に見える光の色に目を凝らした。
青い。
俺の目が間違っていなければ、確かに歩行者用信号機は燦々と青く輝いている。いける。このまま行けば、ベストタイムを十秒以上更新することができる。
そう直感して足を踏み出した瞬間、恐れていたことが起こった。青い光が明滅し始めたのだ。
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