0歳の地図—“偽郷”としての満洲 前編

本日3月31日、『笑っていいとも!』が32年間の歴史に幕を下ろします。約32年間、毎日テレビに出続け今や国民的タレントになったタモリ。そんな「昼の顔」としてのタモリだけでなく、アングラ芸で身を起こし、深夜番組『タモリ倶楽部』で披露する「夜の顔」もまた、強い支持を受けています。しかし、タモリがタレントになるまでなにをしていたのかは、あまり知られていません。自分のことを語りたがらないタモリが残した、数少ない過去についての発言や、タモリ周辺の人の発言を元に、タモリの半生をたどります。終戦の年に生まれた「森田一義」が、いかにして「タモリ」になったのか。その足跡を、cakesの人気連載「一故人」の著者・近藤正高さんが戦後史とともに歩き振り返るノンフィクションです。

この連載がついに書籍化!「森田一義」はいかにして「タモリ」になったのか。関係者への追加取材や大幅加筆でその足跡をさらに浮き彫りにします!


タモリと戦後ニッポン(講談社現代新書)

満洲の友達の輪?

最終回を前にして大物ゲストがあいついだ『笑っていいとも!』だが、3月20日の「テレフォンショッキング」のコーナーに小沢健二がゲスト出演したのに続き、翌21日には安倍晋三が現役首相としては初めて『いいとも!』に生出演した。

小沢のファンなら聞いたことがあるかもしれないが、彼の祖父・開作は戦前に満洲(現在の中国東北部)で民族主義者として活躍した歯科医だった。これに対して、安倍の外祖父で元首相の岸信介は、戦前の一時期、日本の傀儡国家「満洲国」において計画経済を推し進めた官僚だったことはよく知られる。そう、小沢と安倍、いずれの祖父も満洲とは浅からぬ因縁があるのだ。もっとも、小沢開作が漢・満洲・蒙古・日本・朝鮮の「五族協和」による独立国家を満洲に樹立するべく奔走し、その夢破れて北京へと去ったのは1935年頃であり、一方、岸信介が満洲に渡ったのが1936年だから、両者のあいだに直接的な関係はなさそうだ。そもそも開作たちの理想を骨抜きにし、結果的につぶしたのが満洲国の官僚たちだったことを考えると、開作と岸は敵対する立場にあったともいえる。

じつは、『いいとも!』の司会のタモリもまた、満洲とは縁が深い。本人が語ったところによれば、祖父は南満洲鉄道(満鉄)・熊岳城ゆうがくじょう駅の駅長であったという(「タモリ先生の午後2006。」第8回 「ほぼ日刊イトイ新聞」)。

満鉄が設立されたのは1906年。その前年に日露戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約によりロシアから鉄道路線(東清鉄道南部支線)の一部と、その周辺の土地を譲り受けた。満鉄設立とともに「満鉄付属地」と呼ばれるようになったその区域内では、清国の行政権がおよばず、治外法権が認められた。満鉄はそこで土木・教育・衛生にかかわる行政を担うことになる。それだけに満鉄における駅長は、一介の鉄道会社の役職というレベルを超え、地域的にも重要な地位にあったといえる。

タモリの祖父が駅長をしていた熊岳城は、遼東半島の北部に位置する温泉地である。路線でいえば、遼東半島南端の港湾都市・大連(満鉄本社も所在した)から北へ、長春(のちの満洲国の首都「新京」)とを結ぶ満鉄本線の一駅で、満鉄はその周辺に農業学校や農事試験場も開設していた。タモリは糸井重里との対談で、満洲育ちの母親が《熊岳城はよかったよねぇ、フルーツの町で! いちばんおいしかったのはラ・フランスね?》と言っていたと語っているが(「タモリ先生の午後2006。」)、それも新しい農産物の導入が盛んな土地だったからだろう。

満洲にいい思い出しかない家族

タモリは終戦からちょうど1週間後の1945年8月22日生まれ、出身地はよく知られるように福岡市である。だが、幼い頃より祖父をはじめ家族から満洲の話を聞かされて育ったという。その内容をタモリ自身が語ったのを読んでいると、どうも家族の満洲体験は、彼の精神形成に少なからぬ影響を与えているような気がしてならない。ひょっとするとタモリにとって満洲は、現実の故郷である福岡とはべつに、精神的故郷というか“偽郷”ともいうべき存在として位置づけられるのではないだろうか。

もちろん「偽郷」なんて言葉は辞書にはない。私の考えた造語である。しかし満洲国が1945年8月18日の崩壊以降、中国では「偽満」と呼ばれ“なかったこと”にされている事実を踏まえれば、この言葉はタモリにとっての満洲を表すのにぴったりのように思うのだ。ここでは「“偽郷”としての満洲」という仮説のもと、タモリと満洲とのかかわりを見ていきたい。

タモリは自分の家族について、作家の村松友視(「視」は正しくは「示」と「見」を組同み合わせた字)との対談「天才タモリのお母さん」(文藝春秋編『ビッグトーク』所収。初出は『オール讀物』創刊55周年記念増刊号、1985年12月)でかなりくわしく語っている。そこでは、祖父が満鉄の駅長であったこと、また一族が全員、満洲に渡っていたことが明かされた。とりわけ注目したいのは、タモリの祖父母と両親は《昭和十三年か十四年か、太平洋戦争前に日本に帰ってきてますから、引き揚げ船に乗らないし、一切の苦しい思い出がないんですよ。満州のいい思い出しかない》という発言だ。

「満洲のいい思い出しかない」というのは、森田一義というタモリの本名の由来からいっても納得がいく。これは祖父が命名したものだそうだが、大半の日本国民が敗戦のショックに打ちひしがれるなか、生まれたばかりの孫の名前を、陸軍軍人・政治家として中国政策に大きな影響を残した元首相・田中義一からとったというのは、やはり満洲にいい思い出がなければできないことだろう。ただし、「義一」ではなく「一義」となったのは、姓名判断で「義一では頭でっかちな人間になる」と言われたからだという。このことは、『いいとも!』のゲストに名前の読みが同じミュージシャンの斉藤和義が出演したときなど、本人からたびたび語られている。

タモリによれば、祖父は引き揚げ時に財産をすべて処分し、帰国後は借家を7軒(数まで覚えているのが細かい)と山林(山林といっても木がなかったという)を買い、それで収入を得ていたようだ。そして「趣味で」勤めていたという福岡の中洲検番で芸者の手配をしていた以外は、一切仕事はしないまま86歳で亡くなった。まさに悠々自適の後半生をすごしたといえるが、それも満洲での体験なしにはありえない。それだけに、祖父をはじめ森田家の人たちはしょっちゅう満洲の話をしていた。

いかに日本がつまらんかということを喋ってるわけですよ。近所付き合いは窮屈だし、土地も狭い、食べ物はまずい、人間がせこい。そして中国の地名ばかり出てくるんです。だから小学校の時、北満の地図を見ても、全部地名を知ってました。
(「天才タモリのお母さん」)

地名を覚えてしまったというのが、後年のタモリの地理好きの片鱗を感じさせる。それはともかく、満洲を持ち上げ、日本をくさすというのは何も森田家の人たちにかぎったことではない。たとえば、敗戦後に満洲からの引き揚げ経験を持つ日本テレビプロデューサーの市橋明子は、祖国日本にたどり着いて、生活設備の劣悪さを不思議に思ったという(草柳大蔵『実録満鉄調査部』上巻)。

満鉄の、たとえば付属病院にゆくと、給湯装置は完備していたし、医療器具は自動化された減菌装置のトンネルからベルトで流れてくるのだった。  満鉄本社には六百台のタイプライターが唸りをあげ、電話はダイヤル即時通話であり、大豆の集荷数量・運送距離・運賃はIBMのパンチカードシステムで処理され、特急「あじあ号」は六両編成で営業速度百三十キロをマークしていた。しかも冷暖房つきである。ついでにつけ加えれば、ロシア語の二級ライセンスを持つもの四千五百人、中国語や英語を話せるものは、いや、話せないものはほとんど皆無といった状態である。
(草柳、前掲書)

満洲の生活設備や都市のインフラが当時の日本とくらべていかに発達していたかについては、これ以外にも多くの本で指摘されている。

もちろん、日本人の満洲体験と一口にいっても、職業や年代、居住地域(都市部か農村部か)によってその中身は異なるし、とくに引き揚げた時期が太平洋戦争末期のソ連参戦の前か後かでの違いは圧倒的に大きい。ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留された者もいれば、混乱のなかで肉親と離ればなれになり、中国人に引き取られて育った子供たち、のちにいう中国残留孤児も多数出た。

タモリの恩人であるマンガ家の赤塚不二夫も、満洲で生まれ育ち、終戦後、奉天(現・瀋陽)から母と妹弟と命からがら祖国に引き揚げてきた体験を持つ。憲兵だった父はシベリアに抑留されたそうだ。世代というのもあるのだろうが、赤塚のアシスタント出身者には、高井研一郎・古谷三敏・横山孝雄・北見けんいちと幼少期を中国大陸ですごした者が目立つ。後年、赤塚ら引き揚げ体験を持つマンガ家同士で行なった座談会では、もし親とはぐれていたら残留孤児になっていたと、皆が口々に語っている(中国引揚げ漫画家の会編『ボクたちの満洲』)。

満洲で生まれ育った経験は赤塚の精神形成にどんな影響をおよぼしたのか。赤塚は自分にかぎらず、戦前・戦中に中国ですごした日本人は、「没法子(メーファーズ)」、日本語でいえば「しかたがない」といった感覚を身につけたと語っている。

日本の中ではみんながギスギスして生きていくっていうのがある。ところが、満州育ちっていうのは、なんか適当で、アバウトで、「どうでもいいや」「なるようになるさ」って生きちゃった、みたいなのがある。要するにせこせこした生き方より、おもしろくて、のんびりした連中が好きなんだ。
(『ボクたちの満州』)

「没法子」、赤塚マンガの名ゼリフで言い換えるなら「これでいいのだ」となるだろう(というか、どうしてもそう言い換えたくなる)。このおおらかさが、上京したタモリを自宅に居候させることにもつながったのではないか。

(タイトル画像撮影:佐藤真美 モデル:ガラちゃん)

この連載がついに書籍化!「森田一義」はいかにして「タモリ」になったのか。関係者への追加取材や大幅加筆でその足跡をさらに浮き彫りにします!

この連載について

タモリの地図—森田一義と歩く戦後史

近藤正高

2014年3月31日、『笑っていいとも!』が32年間の歴史に幕を下ろしました。約32年間、毎日テレビに出続け今や国民的タレントになったタモリ。そんな「昼の顔」だけでなく、アングラ芸で身を起こし、深夜番組『タモリ倶楽部』で披露する「夜の...もっと読む

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コメント

kanalove09 鉄道と温泉。 12ヶ月前 replyretweetfavorite

kiq #ozkn >小沢のファンなら聞いたことがあるかもしれないが、彼の祖父・開作は戦前に満洲(現在の中国東北部)で民族主義者として活躍した歯科医 / “第1章  3年弱前 replyretweetfavorite

pfd1212 @pfd1212 途中から有料になっちゃうけど、これ、オモロい。 https://t.co/TYDaUAiU9O 3年弱前 replyretweetfavorite

griot_sakamoto 映画「赤塚不二夫(仮)」。入手が難しい満州引き揚げ者の写真をリサーチに、西新宿の平和祈念資料館へ。祖父は南満洲鉄道の元駅長であったという話を伺う。 3年弱前 replyretweetfavorite