二郎にとって幸いなことに、車両中央付近に位置するドアが目の前に来た。最も優先席から遠い場所である。とはいえ、見たところ座席はすでに埋まっているし、立っている客もそれなりに多い。座って安息を得るのは今のところ難しそうだ。二郎は座席につくこと自体を拒んでいるわけではなかった。避けたいのは、か弱い老人として不当に席を譲られてしまうことなのだ。むしろ空いている席があればさっさと座ってしまいたい。座っていれば、席も譲られまい。そう考えていた。
車内に足を踏み入れると、充満した冷気がヒヤリと体を包んだ。
二郎はまず、辺りを見回す。どの位置に立つべきか考えるためだ。電車の中で立つ場合における位置取りは、大別すると三種類ある。
一つ目は、座席の前に向かって立つ位置取り。席が空いたらすかさず座りやすいのはいいが、目の前に座っている客に席を譲られる恐れがある。
二つ目は、左右のドアの中心あたりに広がる座席のないエリアに立つ位置取り。席を譲られることはほぼなさそうだが、ドアの開閉とともに出入りする客の濁流に巻き込まれやすい場所でもある。また、もし空席ができても距離があるせいで席につくのは難しい。
三つ目は、ドアの両サイドの隅に立つ位置取り。客の出入りの邪魔にならず、席を譲られることもありえない。手すりがあるので安定性も高い。ただし、ここに立った場合、座るチャンスを放棄したも同然となる。
二郎としては、座席のないエリアに立つのもドアの両サイドに立つのもしっくりとこなかった。たしかに席は譲られないだろう。しかし、それでは「戦わなければ負けない」と言うも同然ではあるまいか。それもまた真実ではあろうが、一度剣の道を志した男としては、相手と正面から向き合うのが筋というものである。武士道は背を向けた時点で負けなのだ。「戦わざれば亡国、戦うもまた亡国であれば、戦わずしての亡国は身も心も民族永遠の亡国である」と言ったのは海軍大将・永野修身である。二郎は彼の言葉で自分を鼓舞し、座席側へと歩いて行った。だが、飯沼二郎と永野修身には特に関係がない。
さて、座席のあるあたりにやってきた。次に注意せねばならないのは、「誰の前に立つか」ということである。初めて優先席を譲られたあのときを思い出した。目の前に立っていたサラリーマンは、いかにも人のよさそうな、なよなよとした見た目をしていた。そういった手合いの前に立てば、また余計な善意を浴びることになりかねない。ここは他人に無関心そうな、現代的ことなかれ主義的な者の前に立たなくてはいけない。二郎は座っている客たちをじっとりと眺めた。一列に七人、向かい合わせで十四人が座っている。平日の早朝ということもあって、ほとんどが学生と会社員だ。そしてほぼ全員が携帯電話を熱心にのぞき込んでいる。何人かはイヤフォンを耳に詰めて音楽を聴いている。「無関心」という点ではみな条件を満たしているようである。二郎は、向かって右側から二番目に座るスポーツ刈りの高校生に目をつけた。腕を組み、ぐっすりと眠っているようだ。意識がなければ席を譲られることはない。二郎はさりげなくスポーツ刈りの前に立った。
これで、ひとまずは安心である。二郎はほっと息をついた。高校生は微動だにせず、口を大きく開けて寝ている。死んでいるのかもしれない。朝のけだるい空気がクーラーの冷たい空気と混ざって車内に充満していた。
それにしても、と二郎は考える。もし私に子供がいて、私の子供も順当に子供を作っていたなら、つまり孫がいたなら、今頃このスポーツ刈り少年くらいの歳になっているはずだ。だったら、私も「おじいちゃん」と呼ばれることを少しは許せただろうか。「ぶらりこの街」とかなんとかいうテレビ番組を見ていると、テレビタレントが町を歩きながら出会った老人に馴れ馴れしく「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼びかけている。二郎はあれが大嫌いだった。そのうち自分にもそんな呼びかけが飛んでくるかと思うとゾッとした。「おじいちゃん、かわいいね」などと言うアイドルタレントもいる。「馬鹿野郎。犬猫じゃないんだぞ」とテレビ越しに怒鳴りつけたくなる。しかし、このような態度はタレントだけが取るわけではない。普通の若者も少なからず年配に対してそう接する。「おじいちゃん、元気ですねえ」などと。若者に言わせれば、元気なのは老人らしくないのだ。歳を経るごとに、せっかく伸ばしてきた個人の尊厳は切り落とされる。弱く、無個性な「老人」という生き物の形に剪定されてしまう。竹刀を構えていた青春も、仕事に明け暮れた働き盛りの時期も、みんな無かったことになって、淡い思い出だけを抱えたただのおじいさんとして朽ちていく。それでは、人として死んだも同然ではないか。