飯沼二郎は電車に乗ったとき、絶対に優先席に近づかないことにしている。優先されるからである。
二郎は先々月に六十七歳の誕生日を迎えた。とうに定年していて、退職金と年金で「余生」を送る身であり、外見にも相応の老いが見られる。だから優先席で優先されるのは当然のことではあるのだが、それが二郎にとっては我慢ならないのだ。
彼は今、国分寺駅のホームに立っている。
生まれて初めて席を譲られたのは、忘れることのできない、昨年の秋である。やや混みあった電車の中、二郎は吊革に掴まって立っていた。すると目の前の優先席に座っていたサラリーマン風の男が突然「すみません、どうぞ」とつぶやき腰を上げ、そそくさと席を離れていったのである。二郎は辺りを見回した。席を譲られた老人や妊婦やケガ人、あるいは松葉杖をついている臨月の老婆などの存在を探したのである。しかし、それらしき者は見つからなかった。代わりに気づいたのは、周囲の客たちが二郎に注ぐ視線であった。生暖かい視線に押されるようにして空いた席に腰を下ろしたが、うつむいた二郎のはらわたは煮えくり返っていた。あ、あ、あ、あの男、私を老人だと思っていたのか。それに「すみません」という言葉。こ、この私が席を譲るように強要したとでも言いたいのか。舐めるな、私はお前なんかよりよほど体力もあるんだ。あの野郎。許せん。叩き斬ってやる。二郎は降りるまで屈辱に震えていた。
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