プシュウという音を立ててドアが閉まった。私が定期券を渡したサラリーマンは、もう見えなくなっていた。まだ心臓がどきどきしている。知らない人に話しかけるのはやっぱり緊張する。でも間に合って良かった。私が拾わなかったら、あの人は今ごろ困っていただろう。
ドアの横のところに戻って、軽く体をもたれた。ホッと一息つく。隅っこは心が落ち着く。私はバッグからまた文庫本を取り出した。しおりを挟むのを忘れて閉じたから、どこまで読んだかわからなくなってしまった。でもあまり支障はない。もともと、どういう話かよくわからないで読んでいたからだ。
友達の彩絵が貸してくれたこの小説は、難しい。知らない単語が沢山出てくるわけではないのになかなか読み進められない。なんというか、主人公が考えていることがよくわからないのだ。主人公は私と同じ中学二年生の女の子だ。でも、いつも頭の中で色々と難しいことを考えている。そしていつもイライラしている。クラスメイト、先生、親とか人類みんなのことが嫌いで嫌いで仕方がない。なんで嫌いなのかはよくわからない。そしてついに彼女は、ナイフか何かを持って家出してしまう。
私はこんなこと、考えたこともない。基本的にクラスメイトも先生も親も、普通に好きだ。もちろん嫌いな子や先生だっているけど、殺したいほどじゃない。それはみんなそうだと思っていた。でも、そうでもないらしい。彩絵はこの子の気持ちがよく分かると言っているのだ。
たしかに、彩絵は最近よくいろんなことにイライラしている。ほとんどのものが「くだらない」のだそうだ。国語の授業で生徒に一行ずつ音読させるのがくだらない。制服の下にわざわざ柄物のシャツを透けさせている男子がくだらない。健康番組ばかり見ている親がくだらない。なんで健康番組を見るのがくだらないのか訊いたら、「人ってどうせ死ぬし?」と言われた。私は死ぬまでは健康でいたいから、それってくだらなくはないんじゃないかと思った。
ちょっと前まで、彩絵はこんな感じじゃなかった。少なくとも小学生のときはもっとよく笑う子だった。私がよく笑わせていた。中学に入ってから彩絵の雰囲気はちょっとずつ変わっていった。たとえば、スカートの丈がやけに長くなった。入学したての頃は私と同じひざ丈くらいだったのに、どんどん長くなり、今はひざ下十五センチくらいまで伸びた。ソックスにかぶりそうな勢いだ。それと、難しい本ばかり読むようになった。彩絵は小学生のころから本をよく読んでたけど、だいたい「青い鳥文庫」とかだった。今は大人向けの文学ばかり読んでいる。彩絵に言わせれば「たいしたことない、暇つぶしの」本らしいけど、ちょっと読ませてもらったらさっぱり意味がわからなかった。今借りているのは、「中学生向けならこれがいいんじゃない?」と彩絵が勧めてくれた本だ。自分も中学生のくせに。でも、貸してもらえたのは嬉しかった。
私はあんまり本を読まない。大学生のお兄ちゃんの部屋から漫画を借りてきて読むくらいだ。だから、家で彩絵から借りた文庫本を唸りながら読んでいたらお母さんに驚かれた。そして「ダメよ、本ばっかり読んだら毎日がつまらなくなるよ」と注意された。お母さんはたまに変なことを言う。普通は「本は人生を豊かにするわよ」とかじゃないの? でも、本ばかり読んでいると毎日がつまらなくなるというのは本当かもしれない。なにしろ彩絵は毎日退屈そうだから。
「西国分寺、西国分寺です」
ぼんやりしていたらもう西国分寺だ。相変わらず読書はなかなか進まない。主人公の女の子がだんだん彩絵に見えてきて集中できなくなる。さすがに彩絵は雨に濡れながら夜の繁華街をさまよったりはしないと思うけど。
「っかさあ」「マジ」
ドアが開いて、聞き覚えのある声がした。文庫本からちょっとだけ顔を上げると、同じクラスの西浦陽子が他のクラスの友達と喋りながら乗車してくるのが見えた。こっちには目もくれない。楽しそうに話している彼女たちの髪には、軽いウェーブがかかっている。あいつらは不良だ。何かというと先生に突っかかったり、校則をわざと破ったりする。中でもあの西浦陽子は特に先生に反抗的だ。授業中にずーっと頬杖をついていると思ったら、袖の中にイヤホンのコードを通して片耳で音楽を聴いていた。それを友達に自慢気に報告している西浦を遠目に見て、彩絵は「くっだらない」といつものセリフを言っていた。それに関しては私も同感だ。家で聴けばいいのに。なんでわざわざ意味ない危険を冒すんだろう。
「で、早くやれとか言って意味わかんなくて」「うん」「ふざけんなしと思って」「わかる」「めっちゃキレて帰った」「やばくね」
電車の中でも彼女たちのおしゃべりは止まらない。もう少し静かにしてほしいけど、言える勇気はない。
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