複数の「友だちの輪」を移動してみる
この「檻を移動する自由」というのが、「平凡な自由」につながると思います。
このやり方は、宗教などの「修行してナンボ」の世界では、逃げと見なされて否定されるでしょう。
彼らの中では「その檻から出る」ことが重要なのですから。
けれども、僕たちは実際にはそこまでできませんし、そんな人ばかりだと社会が成り立ちません。
「檻」の移動は、SNS(ソーシャルネットワークサービス)によって、より簡単になってきていると思います。
いろいろなSNSが乱立していますが、そうしたものを「保険のための檻」と考えればいいのです。
ただ、今、あまりにSNSに頼り切って疲れてしまう、「ソーシャル疲れ」というものも、よく耳にするようになりました。
そうして疲れてしまう人は、自分のかかわりの中だけでSNSのコミュニティを広げてしまいがちです。
そうすると、新しい「檻」を作ったとしても、中身は自分を知っている人だらけなので、まったく意味がない。
むしろ、どの「檻」に行っても自分を誰かが知っていたり、息苦しさから別の「檻」に行ったとしても、「檻」同士がつながっている、ということもありえます。
自分で思う以上に、意外とSNSって狭いんです。
SNSを使わない人が集う「檻」もあるはずです。
「檻」を移動するなら、「檻」の種類自体を変えたほうがいいということです。死んでしまったKは、完全に違う「檻」には行けなかった。
どこかで近い人間関係が繋がっている「檻」だけで生活していた。
だから、あるどこかの人間関係がおかしくなると、連鎖的にほかの人間関係も壊れていってしまった —そういうことなのかもしれません。
そうなると一見して、自分に逃げ場がなくなってしまう感覚になります。
だから、僕も知らない、全然違う、日常の人間関係から遠い「檻」を作ったほうがよかったと思うんです。
「お説教好き」のいないところへ
ただ、コミュニティ自体は、普段の人間関係が拡張したものなので、いきなりまったく知らない「檻」へは行きづらいでしょう。
実は自分の持っている趣味なども、周りの誰かに影響されてのものだった、などという経験はありませんか。
そうしたコミュニティばかりだと、普段の人間関係から別の人と繋がって、そのまた別の人と繋がって ……と、広げていったほうが早い。
まったく見ず知らずのコミュニティというのは、意外と排他的な所もあるからです。
たとえば、僕が、昔やっていた弓道を久しぶりにやろうと思って市民センターにある弓道場に行ったことがあります。
平日の市民センターなんてお年寄りばかりですから、優しく迎え入れてくれるかなぁ
なんて考えていました。
実際に道場に着いたら、超厳格なおじいちゃんがいるんですよ。
注意ばかりしたがる人や、自分たちのコミュニティの「掟」のようなものを大事にしすぎる人たちです。
そんな人がいるコミュニティに行ってしまうと、簡単に挫折してしまいます。
もっとゆるいコミュニティでいいと思います。
「不自由すぎて生きづらい」と悩んで、武道教室とかお寺などに顔を出すと、お説教を食らうのがオチです。ただ、へこまされるだけで終わります。
僕みたいに、どんな言葉の銃弾を浴びても気にしない(というかあきらめている)人ならば、それでもいいのです。
けれどもナイーブな人もたくさんいます。
そういった人たちは、まず、自分がある程度貢献できて居場所を作れるコミュニティというものを探してみてはいかがでしょうか。
あるいは参加者が極端に少ないワークショップなども、人と繋がるきっかけづくりにオススメです。
例えばダンスではなく暗黒舞踏、太極拳ではなく聞いたこともないような武術、などは実際に僕が行った感じだと、わりと居心地が良かったです。
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