“究極のリア充 ”だったブッダが求めたもの
普通なら「いや、そこはもう逃げなくていいだろう」と思うでしょうけど、「そこまでするか?」みたいなレベルで超自由になりたいということでしょう。
でも、「僕は満足してたけど、この世界って本当は不自由なんだ」と気付いてしまったんです。
心が死に囚われてしまった、ということでしょう。
そこから出家したいブッダは、生まれたばかりの実子にラーフラ(=障害をなすもの)という名前をつけたほどです。
息子にキラキラネームをつけてまで逃げるなんて、普通からするとあり得ません。
「そこまでして、自由を求めるとか、おかしいんじゃないのか?」と思いませんか。
けれど、最終的には、そんなブッダは悟ります。 なにを悟ったのか。
これは簡単に説明できるようなものではありません。教科書的に説明すると、
なかでも無我というのは仏教独自の考え方で、これはつまりすべての存在には我(主体)がないという思想です。
「私」などというものもなければ、神様などというものもない、なにひとつない。
つまりは、すべては自由だったのだ ……いや ……自由という概念すら存在しないほど自由だった ……というか ……その概念すらないほど自由だった ……(以下無限に続く)。
そんな究極の自由をブッダは悟ったのです。
思想としてはとても興味深いですが、平凡な現代人がこれを聞いて救われるかはかなり疑問です。
自由になるのに努力は必要ない
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