説明用の資料をぼんやり眺めていた彼女は、ふいをつかれ油断した顔を私に向ける。
「えっ、はい」
「その……少し気がかりなことがあるんです。盗み聞くわけではなかったのですが、下柳さん、以前あなた私のことを、カワイイと、そう言っていませんでしたか」
下柳は驚いて、口元を手のひらで抑えた。
「あっ、やだ、ごめんなさい。聞かれちゃってました?」
聞き違いではなかったらしい。
「カワイイとは、どういう意味ですか」
「いやあの、全然悪い意味じゃないんですよ。課長、すごい日本語お上手じゃないですか。日本人も使わないような言葉とかよく使うし」
「たとえば?」
「『お見知り置きを』とか、『気散じにどうぞ』とか『本日はお骨折り賜りましてありがとうございます』とか……さっきも『つかぬことを』なんて言ってましたよね。いまどき日本人も使いませんよ、そんな言葉」
下柳はそう言って笑ったが、私は内心、なるほど、そういうわけかと思っていた。私が古めかしい日本語を使うのには、それなりの理由があったのだ。猛省しております・僭越ながら・お汲み取りください・若輩者ですが・おかまいもできませんで・その節はどうも・やぶさかではありません……このような言い回しを金髪の外国人が使うと、先方の受けがいいのである。どうやら日本人は「日本通の外国人」に心を許す性質があるらしいと気付いたのは、日本に来てニ年目辺りのことだ。これをビジネスに役立てない手はないと、堅い言葉をあれこれ勉強して使っているうちに、語彙が体に染み付いていた。そのギャップが若い下柳の目には「カワイイ」と映ったのだろう。ならば、何も気に病むことはない。
「つまり、私がカナダ人なのに古めかしい日本語を使うからカワイイと、そういうことですね」
「うーん……なんか、ちょっと違うかもしれない」
下柳は何かを吟味するような表情をして言った。違う? 日本語が得意なガイジンが微笑ましいからカワイイのではないのか?
「どっちかっていうと、そうやって頑張っちゃってる感じがかわいいな、みたいな感じかもしれないです。ほら、日本人は生まれた時から日本人だから、わざわざ意識して日本人っぽくなろうと努力してる人がかわいく映るのかも。なんか課長って周りに合わせようってすごい頑張ってる感じがして……あ、悪い意味じゃないですよ! それが良い意味ですごいし、かわいいんです」
おそらく彼女は「良い意味で」を万能の免罪符だと思っているのだろう。いや、それよりも意外だったのは、私の思惑をごく自然に見透かしていたかのような言動だ。きっと彼女にはそんなつもりはなく、本当に「良い意味」で言ったのだろうが、私は痛いところを鋭利なもので突かれたような心持ちになった。
「……そんなふうに見えますか」
「見えますよ! でも、もう課長って日本に染まりきっちゃってるから、今さら日本人に近づこうとする必要なんかないんじゃないかなーって思いますけどね」
「染まりきっているつもりはありませんが……」
「染まってる人は染まってることに気づけないんですよ。えーと、たとえばさっき売店に寄ったとき、課長は一二〇円のガムを買うために五二〇円出して、四〇〇円のお釣り貰ってたじゃないですか」
「ええ」
「それって日本に来てからついた習慣ですよね?」
「……そうですね」
たしかに、そうだ。カナダにいた頃は、受け取った大量の小銭をポケットにじゃらじゃらと入れて歩いていた。キリの良い額のお釣りを渡される快感を覚えたのは、来日してからだ。自分では意識したこともなかった。
「その払い方、いかにも日本ぽいなーって感じですよ。私もよくやりますし。あ、あと、改札の通り方。改札の一〇メートル手前くらいから定期券を探しはじめて、なおかつ歩きのスピードはまったく緩めず、ちょうど定期を取り出したタイミングで改札が目の前に来るような間合いの取り方、完璧でしたよね。日本のサラリーマンって改札付近で絶対立ち止まらないから、自然とああいう技を身につけるんです。誰かに教わったんですか?」
「……いや、まさか」
それも今初めて気がついた。たしかに言われた通りの動作を無意識に毎日行っている。だが、私はいつの間にそんな不可思議な動きをマスターしていたのだろう。
「あ! そうそう、極めつけのがありました!」
下柳は軽く合わせた両手で小さな音を鳴らして言った。まだ何かあるというのか。なんだか、過去の罪を暴かれているかのようだ。
「課長はよく社食の日替わり定食セットを召し上がってますよね。納豆と味噌汁が必ず付いてくるやつ」
妙なところばかりよく見ている部下だ。
「まさか、納豆と味噌汁が好きなくらいで私が『染まっている』と?」
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