気の持ちよう次第で自由と不自由を行き来する
自殺はある意味で究極の自由と言えるかもしれません。
しかし、なぜその方法でなくてはならなかったのでしょうか。
選択肢がそれひとつになることは、どう考えても「自由」とはちがうのではないでしょうか。
もっとギリギリの場所で、自由を勝ち取るための方法はないのでしょうか。
誰しも、誰かに「こうしろ、ああしろ」と言われるのは嫌です。
ご多分に漏れず僕もそうですが、困ったことに、相手の意見が正しかろうが、間違っていようが、どちらでも聞き入れることがあまりない。
そう言われること、それ自体が嫌いなんです。
真っ白でどこから見ても公明正大な正論で言われても、まったく納得できなくて、「そんなの嫌です」と言ってしまいます。
でも、最近、実はそういったスタンスそのものが、「不自由さ」をもたらしているとも考えるようになりました。
たとえば、自分が「しばられたくない」みたいな話をし始めたときに相手から、
「いま、自由じゃないの?」
「自由じゃないといけないの?」
「それって、あなたは不自由だね」
と、言われたらどうでしょうか。自由であることに思考がしばられていて、結局は狭量で不自由な考え方しかできなくなっていませんか。