まだ幼稚園に通っていた頃、私は動物が大好きだった。ゾウやキリンのぬいぐるみに囲まれて、いつも動物が出てくる絵本をぺらぺらとめくって過ごしていた。ゾウがピクニックに出かける絵本が特にお気に入りだった。
服が汗でじっとりと湿るような初夏のことだったと思う。お父さんが週末に動物園へ連れて行ってくれると言った。私は狂喜乱舞して、その日を指折り数えながら待って過ごした。動物園にはゾウさんがいる。キリンさんもいる。ライオンさんもいる。ぬいぐるみではない本物の動物に会えるなんて、夢のようだった。そして、週末がやってきた。
はじめて動物園に行った日、私は親に手を引かれ、泣きながら家に帰った。
私の知っているゾウは、鼻が大きくて、耳が大きくて、薄い水色の体に優しい目をしているはずだった。しかし、実物の象はぜんぜん違った。間近で見せられた象の目は思いのほか鋭く、皺だらけの硬化した皮膚には、無数の産毛が生えている。のろのろと歩きながら鼻を器用に使って体に泥を塗りたくる動物は、絵本で見た「ゾウさん」ではなかった。くすんだ灰色と皺の塊だった。
お父さんは私を背負って次々と動物を見せてくれた。それらを見ていくごとに、私は泣きそうになっていった。
キリンの舌は黒ずんだ触手のようで、それを絡めるようにして草をむさぼる姿には、およそ温かい感情なんて見えない。カバは全身が水に濡れて光っているのが気味悪く、ヒゲ剃り跡みたいな口の周りのボツボツを見て鳥肌が立った。チンパンジーは尻に赤黒い物体をぶら下げていて、痛々しかった。私が初めて経験したリアリティだった。私にはそれが嫌で仕方がなくて、いつの間にか泣きわめいていた。「帰る、帰る」と連呼する私を見て、お父さんは困惑しただろうと思う。あれ以来、私は動物園に来ることはなかった。
「……要するにさあ、現場のこと全然わかってないんだよね。あれ、聞いてる?」
右隣に座っている男が私の顔を覗きこんで言った。……この男は誰だろう。それで、ここはどこだろう。なんで私はここにいるんだろう。
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