かつてこのような説を唱えていたことがある。
人間の脳はものを考えるところにあらず。もちろん「精神」などという抽象的なところで考えていると言いたいのではない。あるいは、細胞の一つ一つが思考を巡らせていると言いたいわけでもない。じつは、空気中の酸素が考えているのである。
嘘だと思うならば深呼吸をしてみたまえ。頭がすっきりとし、思考が晴れ晴れと冴え渡るのが分かるだろう。水で満たした洗面器に顔を付けて一分間呼吸を止め、顔を上げてすぐに九九の七の段を逆に唱えてみたまえ。後頭部に痛みが走り、しちはちろくじゅうく、などと口走るだろう。この変化は、酸素の量の大小によってもたらされるのである。これは人が酸素なくして思考できない証拠である。しかも、酸素の力を借りて脳が働くという生易しいものではない。人間の思考は酸素そのものにあるのだ。脳は触媒にすぎず、酸素の思考が脳を通じて外に露出しているのである。この説を信ずるならば、人間の気まぐれの理由がたちどころに理解できる。昨日会ったら好きと言い、今日に会ったら嫌いという乙女心。思考を為すものがひとつところにとどまっているとすれば不可解だが、なんのことはない、吸い込んでいた酸素が違えば思考も変わる、それだけのことなのである。
これはわたしが学生の頃、満員電車に押し込められ酸欠で朦朧としながら思いついた案である。それから何年も経過したいま、広々と空いている中央線東京行きの列車の中で、酸素をたっぷり吸いながら思う。どうもこの説は間違っていたような気がしてならない。酸素がものを考えているなら、近くにいる人間どうしは同じようなことを考えているはずではないか。なぜそんなことに気がつかなかったのだろう。おや、しかしあの満員電車で考えたことと、この空いている電車で考えたこととが食い違っている、そのこと自体が「酸素思考仮説」を証明する材料になりはしないだろうか。うーん、これは研究の余地がある。
腹が減っている。
向かいの窓の向こうの空で、鳥が列をなして飛んでいる。時刻は午後二時を過ぎて、停滞的なムードが漂っている。正面に座っている女はアホみたいな顔をして、兎の耳がついたアイフォーンをいじっている。車両と一緒に体が揺らされて、からっぽの胃が、からっぽであることを主張する。わたしは今朝からなにも食べていないのだ。
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