ゾンビ表象と死生観の変容

SF・文芸評論家の藤田直哉さんが、話題作『屍者の帝国』及び押井守『ゾンビ日記』、そしてゲーム『デウスエクス』を論じた力作評論です。そこから見えてくる現代の死生観とはいかなるものか? ご一読ください。

死生観は文化的なものである

 フロイトは第一次世界大戦に直面し、自身の理論の中身を全面的に組みなおさなければいけなくなるほどの、混乱と狼狽を示した。「戦争と死に関する時評」(1915年)には、その混乱が率直に示されている。

「すでに指摘したように、戦争において死に直面したために、わたしたちの行動能力は混乱し、麻痺し、ひたすら困惑している。それは死にたいするこれまでの姿勢をそのまま維持できない一方で、新しい姿勢をまだ発見できないためだろう。だから死への新しい姿勢を発見するためには、死にたいしてわたしたちとはまったく異なる態度を示す二つの事例について、心理学的に研究することが役立つだろう」(『人はなぜ戦争をするのか』光文社古典新訳文庫p77)

 フロイトがここで言っているのは、第一次世界大戦のような、「偶然ではない」死によって、死の観念が変化し、同時に生の観念が変化したということである。その新しい死に対する「新しい態度」は当時まだ発見できていないとフロイトは感じていた。

 死をどう思うか、生をどう思うかは、文化的問題である。死そのものが事実としてどうであるか、生そのものが事実としてどうであるかは、科学技術などの下部構造に大きく左右されて変動することは疑いえない事実である。だが、人間はそのありのままのナマの事実をそのまま受容するわけではない。文化的な儀式や、それに伴う観念越しに、死や生を理解せざるをえないのだ。

 死生観は文化的なものである。だからこそ、芸術作品やサブカルチャーの中に現れている「生と死」を分析することは、我々が、自身の「生と死」をどのように把握して認識しているのか、あるいは「我々」のものとして文化的に共有しようとしているのかを知る手がかりになる。

 本論は、伊藤計劃×円城塔の著作『屍者の帝国』(河出書房新社)についての書評を、とのことで依頼を受けたものであるのだが、直球の書評は『週刊読書人』に執筆してしまっており、そちらがウェブでも公開されているために、少し別の角度から『屍者の帝国』を論じてみることにしたい。

屍者の帝国
屍者の帝国

 それは、ゼロ年代後半から爆発的な量で増殖し始めた「ゾンビ」を扱ったコンテンツとの関係においてである。その「ゾンビ」というサブカルチャーにおける意匠が、我々の死生観を反映している、あるいは再構築しようとしているものと見る仮説の視座に、ここでは立ち、その角度から『屍者の帝国』を論じてみたい。

 そのような仮説に立つのは、詳細はこの紙幅では論じきることができないが、様々な媒体にここまで「ゾンビ」表象が増えているという現実がなかなか説明できないからだ。本当にそうなのか、サブカルチャーの表象は現実を単純に反映しているわけではない、という議論はもっともである。そのような詳細な検討を行うにあたって、作業仮説としてこの立場を採用してみたい。そして、その仮説の立場から、特徴的な作品を三作品ばかり挙げて、実際に見ていただくことで、いわば氷山の一角として、現在起こっている“かもしれない”死生観の変容を、徴候として感じていただけたらと思う。

 本論で扱うのは、現代日本の、キャラクターや虚構などと一体化したような死生観を表している作品としての『ゾンビ日記』(角川春樹事務所)と、情報化社会において、計算機と人間との区別がつかなくなっているかもしれないという生命観を共有している作品としての『デウスエクス』である。

 もちろん、サブカルチャーは単純に社会を反映するわけではない。とはいえ、サブカルチャーは、公式文化、あるいは高尚な文化から逸脱する欲動の表出の有力な回路の一つでもあるがゆえに、そこに注目することには、これから訪れるかもしれない世界を先駆的に見取りうる可能性が存在すると考えられる。その作品の持っている死生観が現実に生きている我々に影響を与えることももちろん分析が意義を持ちうる大きな理由でもある。

 現在大きな変化を迎えている「ゾンビ」表象の全てを網羅することはここではとてもできない。本論では、顕著な特徴を示す三つの作品を紹介することで、現在起こっているゾンビ表象の変動と、その背景に起きているかもしれない「死生観」の変化を示唆できればと思う。

 議論の全体がお読みになった方々を満足させるような論理的強度を持っておらず、あくまで主観的で曖昧な“印象論”に過ぎないのは、本論の弱点である。今はまだ論理的強度や説得力において満足のいくものではないという点は(本人も重々承知しているので)、やがて書かれるべき「現代ゾンビ論」の予告編のパイロットフィルムのようなものとして、ご寛恕願えればと思う。

押井守『ゾンビ日記』—死が変わることで生も変わる

 我々が、歴史的にどのような死生観の変化を体験し、そして今どのような死生観の変動に巻き込まれているのかそれ自体を描こうとした作品がある。それは押井守が2012年に発表した小説作品『ゾンビ日記』である。本作は、「メタ死生観」小説ともいうべき作品である。

 この作品は、ある孤独なスナイパーの孤独な追悼の儀式を中心的に描く。ゾンビたちによってほぼ全ての人間がいなくなってしまった世界において、たった一人、孤独に淡々とゾンビの頭をスナイパーライフルで撃ち抜いていくことこそが、この主人公が自身に課す、死者を適切に葬るための儀式である。

 何故スナイパーライフルで頭を撃ち抜くことが死者を適切に葬ることになるのか? この奇妙な儀式が生じる理由の一つは、共同体が存在しないことにある。「死は個別のものであると同時に共同のもの、集合的なものなのだから、形式的な儀式でなく魂の儀式として死者を愛さなければならない。/生きている者は死者たちの屍のうえに自分の生を営んでいるのだ—と、彼女〔引用者註、主人公が思い出している、死と生の境界を身体で表現しようとした舞踏家〕は敬愛してやまないフランスの演劇人、アントナン・アルトーの言葉を引用して言っていた」(p60、61)。

 生ける屍が現れ始め、それを〈強制収容所〉で処分しているうちに、生と死に関するモラルが崩壊していく。それに引き続き、「死」の観念の崩壊が始まる。この死生観の崩壊こそがこの世界を壊滅的に破壊した原因である。作品は、死生観がどのように変動してきたか、主人公の孤独な思弁を通じて確認していく。

 原始人は、死者は死んだらただのモノとは思わなかった。死者と交信を行おうとするなど、魂の存在を信じていた痕跡が多く残されている。そのような死生観の上に、社会構造が成り立っていた。

 そして近代。銃が発明され、大量死が起こるようになった時代。押井は、米国陸軍に23年勤め、その後心理・軍事社会学の教授となったデーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫)などの著作を引用しながら、ある場合においては人を殺すことに極端な困難を覚える人間が、同時に大量虐殺も起こすというモラルの不思議の問題に踏み込んでいく。

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