無想庵物語(山本夏彦)4

山本夏彦の『無想庵物語』評は最終回です。作家・武林無想庵との出会い、ともに渡仏し、大人になっていった夏彦。今回は本書のもうひとつの物語である、無想庵の娘・イヴォンヌとの関係について読み解きます。夏彦にとっての文学とは詩とは、そして恋とは性とは、いったいなんのか。稀代のコラムニストの本質に迫ります。

夏彦のイヴォンヌへの思いは


無想庵物語(文春文庫)

 山本夏彦は数え年で記憶を語る。再会したイヴォンヌは18である。そして夏彦が23、辻まことが25である。三人はその一年間、毎日じゃれ合うように過ごした。二人の男と一人の女の青春。三人で二階の小部屋で雑魚寝して暮らしたこともある。階下には無想庵がいた。

 男たちが泊まることたび重なって無想庵は耐えかねたのだろう。二階へあがって頭まで被った布団をはいで、「なんだ夏彦か」とうめいた。共に寝ているのだもの、イヴォンヌは時々、犇とだきついた。それは恋でもなければ愛でもない。性の衝動に過ぎない。二人は深い仲ではない。「いちゃつきゃへそつく」というほどの仲である。

 これは嘘とも本当とも言えない。確かに夏彦とイヴォンヌの仲は「性の衝動に過ぎない。二人は深い仲ではない」と言えるかもしれない。しかし、「恋でもなければ愛でもない」ということはなかった。夏彦は、恋情からイヴォンヌをいじめた。二人はよくけんかもした。夏彦は当てつけに別の恋人を作ってみせようとして、その女にふられたことも死後の日記から判明している。

 イヴォンヌは父・無想庵ともけんかした。三人の青春物語は終わりの季節を迎えようとしていた。1938年(昭和13年)のことだ。

 某月某日イヴォンヌは無想庵を訪ねて、すこし改まって「パパはまことと夏彦とどっちが気に入っているの?」「どっちだなんて考えたこともない」「それじゃどっちと結婚してもいい?」
 私は無想庵とイヴォンヌが和解したことを喜ばなければならない。改まって父親の意見をきく彼女の心根のやさしさに打たれずにはいられない。これは文子にはないことだ。
 こうしてまこととイヴォンヌは結婚するのである。私はやきもちをやかないのである。

 夏彦が「やきもちをやかない」というのは本当のことだろう。女を奪い合うという三角関係ではなかった。イヴォンヌは夏彦とまことを自分ではついに選ぶことができなかった。夏彦も、まことを押しのけて自分の恋を素直に貫くこともできなかった。まこともイヴォンヌを持て余していたが、年長の彼が彼女を落ち着かせたと見てもいい。

 『無想庵物語』には書かれていないがその年、まことは別の女との間に娘をもうけている。娘は女にひきとらせた。翌年にイヴォンヌは娘を産むが、彼女は娘を押し入れに入れて遊び歩いた。その間に娘は布団で窒息死した。その翌年にも娘を産んだが育てることができない。竹久夢二の息子である竹久不二彦の養女とした。昭和17年、まことはイヴォンヌから逃げるように東亜日報の記者として天津に赴いたが、彼女は追った。この間の、イヴォンヌとまことの関係は、西木正明の小説『夢幻の山旅』に面白おかしく書かれている。しかし同書にほとんど夏彦の姿がないことからも自明なように、この小説に描かれているイヴォンヌの像は実際のイヴォンヌとは違う。夏彦は彼女の純真を見ていた。「イヴォンヌは若く美しく、それに腹蔵というものが全くなかったからいたるところで取巻きができた」と語る。

夏彦、イヴォンヌ、まことのその後

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