それからわずか3年後。
無事に地元の大学へ進学し、名前ばかりの二回生へなろうとしていた僕の耳に、驚きのニュースが飛び込んできた。
あのお笑いのヨシモトが福岡に事務所をオープンさせた上に、これからは福岡で地元の若手芸人を育てるというのだ。
そのためにまずは第1回目のオーディションを開催するという。
大学では落語研究会=落研に所属し、いっぱしのお笑い通を気取っていた僕にとって、これは看過できない「大事件」だった。
「コマンド、これ知っとう?」
学食で僕を見つけたサロンが、事件を報じるスポーツ新聞を片手に近づいてきた。その顔は早くも上気している。
サロンやコマンドというのは落研内での愛称で、いわば芸名みたいなものだ。
2個上の先輩に名付けられるのだが、四六時中この愛称で呼び合うという落研の決まりは、芸界の疑似体験につながっていたからだろう、自分たちを普通の学生でない何かだと錯覚させるに十分な力を持っていた。ちなみに屋号は全員、福々亭を名乗っていた。
「うん、知っとうよ」
「なら、どげんする?」
大学に入るまで、ひょっとしたら県内で一番お笑いが好きなのは自分じゃないかと思うほど、僕はお笑い番組を見ていた。
中学3年生の頃、精一杯の中流家庭を演じていた両親が、少し気が遠くなるような回数の分割払いでビデオデッキを購入してからというもの、およそ福岡で放送されるお笑い番組の全てを僕は見てきた自信があったのだ。
その証拠に、お笑い好きが集ったハズの落研内でも僕の知識は抜きん出ていた。
みんなが知らない芸人を、僕は知っていた。みんなが見逃したあの番組も、僕だけは見ていたのだ。
そんな僕と唯一互角に張り合っていたのが、サロンだった。
「どげんもこげんも、出るっちゃろ?」
「うん、そのつもりばってんね」
大学で初めて出会った、ほぼ同じ趣味嗜好を持つ同級生。
いや、似たような親友は高校の頃にもいたし、落研の中にも仲良しはたくさんいたが、サロンは別格の存在だった。
すぐに意気投合し、毎晩のように互いの知識を重ね合わせては、心ゆくまで笑い転げる。
どんなマニアックな話題にもついていける、打てば響く太鼓同士だった僕たちのやりとりは、やがて同期の中心に居座り、その求心力は先輩たちから「再来年の部長と副部長はサロンとコマンドで決まり」と公言されるほどだった。
その評価は面映ゆいながらも誇らしく、僕たちはいつしか名コンビを気取りながら、大学生活を存分に謳歌していた。
しかし、そんな毎日の積み重ねは、僕たちの人生を少しずつ、そして着実に狂わせる。
入学当初は郊外にあるキャンパスへ実家から90分近くかけて通っていたが、すぐにそれは人生のロスタイムにしか思えなくなり、僕は大学近郊に住む先輩や同期の家を転々とするようになっていた。
これで終電を気にせずに落研の活動ができるようになったし、先輩から居酒屋という未知の空間へ連れて行ってもらえる機会が増えたし、何よりもサロンと一分一秒でも長く遊べることが嬉しかった。
が、これまで修学旅行以外の外泊をしたことがなかった僕にとって、親という目覚まし時計からの解放は禁断の果実だったようで、次第に生活のサイクルが落研中心へとシフトチェンジされるだけならまだしも、落研に熱中するあまり講義を疎かにするどころか、講義に出ること自体が稀という、すっかり堕落した大学生に成り下がってしまったのだ。
進級を左右するような、絶対に出なければならない大切な講義でさえも、僕は「寝坊」という小学生レベルの理由で穴をあけてしまっていた。
「あんた、大学に何しに行きよるんね!」
講義によっては数回の欠席が保護者にハガキで通知されるシステムがあったものだから、たまに家に帰るなり、こう怒鳴られたことも一度や二度ではない。
しかし堪えたのは、親父よりも母親の方が怒っていたことだった。
僕のためにそもそも不可能だった学費を、父方の祖母の田んぼを売るという最終手段で、結局は「親戚との断絶」と引き換えに工面したのだから、なんだかんだで血縁関係のある親父よりも、結局は赤の他人に成り下がるしかない母親にかかった心労の方が大きかったのだろう。
親父が容易に口を出せない勢いで、どんな時も味方だった母親から、僕は叱られる始末だった。
もちろん、似たようなハガキはサロンの家にも届いていた。
大企業というわけではないけれど、その地区にはなくてはならない存在の、なかなか立派な土建屋の長男として生まれたサロンは、家業を継ぐためにまずは付属高校に入学し、そのままエスカレーター式に大学の土木工学科へ進学していた。あとは卒業さえすれば、晴れて二代目の誕生である。
そんな順風満帆な将来設計の土台を歪ませる息子の行為は親父さんの逆鱗に触れ、想像以上にこってり絞られたと笑っていたが、同じ境遇に置かれたという共通の痛みは、僕たちの絆をより一層深めていた。
その一方で、少なくとも怒りの本質は金銭ではないという、たったひとつの根本的な違いは、僕の心に羨望、嫉妬、虚無、絶望がブレンドされた、ただただ青臭い感情も芽生えさせていた。
脱皮した後の残りカスのような、失せ物を覆っていた埃のような、もしくは拙い夢にへばりついていた垢のようなものが、僕の心の最深層にゆっくりと降り積もる。
その光景をライトアップさせていたのは、いくら考えても意味のない、子供じみた僕の夢想だった。
もしサロンの家に生まれていたら、僕はどうなっていたんだろう?
ひょっとしたら、今頃は東京にいるのかな?
そんな「もしものコーナー」が始まっては、何のオチもないままに終わりを告げる。
何一つ生み出さない、まったくもって無駄な時間。
その残像を消去する作業ほど、虚しく馬鹿らしいものはなかった。
実家でお灸を据えられると、さすがにふたりとも数日間は真面目になる。しかし喉元すぎれば何とやらで、気がつけば僕たちはいつもの生活に戻っていた。
落研の部室に寝転がりながら、もう片方の登場を首を長くして待ち受ける。顔を合わせればこっちのものだ。お互いに適当な理由をつけ合っては、一目散に講義とは反対の方角へ走り出し、その日一日を棒に振っていた。
学生として怠惰な、しかしお笑い好きとしては勤勉な、いずれにしても親不孝極まりない、人として最後の甘えが許された「キャンパスライフ」という名の執行猶予期間。
それはテレビゲームにおける最後の一機と同じで、ゲームオーバーの瞬間を刻一刻と予感しながらも、だからといってコントローラーを手放すわけにもいかないというような、そんな止むにやまれぬ毎日だった。
しかし僕はもう、それならそれでいいとすら思い始めていた。ここで途中下車なんて到底できないし、後戻りなんてできっこない。もう賽は投げられたのだ。行けるところまで行くしかない。
僕をそんな気持ちにさせたのは、間違いなくサロンだった。
テレビで見たことを言い合って満足していた高校時代。
知識を重ねることに無上の喜びを感じていた大学時代。
てっきり、これで終わりだと思っていた。
この先は行き止まりだろう。
だから、ひとつでも多くの思い出を作るんだ。
そのために、僕は落研に入ったハズだった。
みんなそうだろう?
自分が何者かになろうなんて、思ってないよね。
みんなそうだよね?
そう信じて疑わず、僕は大学にやってきた。
しかし、サロンは違った。
俺は芸人になる。
最初から、そう言い切っていたのだ。
「俺、たけし軍団に入りたいっちゃんね」
初めて聞いた時は冗談だと思っていた。
「俺、タモリと中学が一緒なんよ。やけん近所にタモリと今でも仲良いっていう人がおってさ」
へえーって思った。
「その人に言えばタモリの運転手になれるかもしれんとって」
この辺りから、マジか? と思った。
「まあ、第一希望はたけし軍団やけど、吉本の漫才とかも好きっちゃんね。やけんタモリの運転手は保険ばい」
そう身勝手に語るサロンは、端から見れば世間を舐めきった若者に過ぎなかっただろう。
しかし僕にとって、こんなことを平気で口にするサロンとの出会いは人生最大級の衝撃に等しかった。
だからこそ、サロンは最初から別格だったのだ。
(撮影:隼田大輔)
次回、2月28日更新予定
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