一故人

永井一郎—いかに行動するかを考え抜いた声優哲学

声優、ナレーターとして多くの人に親しまれた永井一郎。その死は日本中に悲しみをもたらしました。熱中した演劇活動や電通に入社など、意外とも言える過去について今回は触れながら、故人の人柄を偲びます。

不承ながら電通の正社員に

俳優・声優の永井一郎(2014年1月27日没、82歳)は、学歴を詐称したことがある。ただし、学歴詐称というとたいていは低い学歴を高く偽るものだが、永井の場合は逆だった。京都大学文学部仏文科卒という高学歴ながら(大学進学率がいまよりずっと低かった1950年代当時のことだからなおさらだろう)、広告代理店の電通でアルバイトを始めたとき、それを隠して、高卒ということにしたのだ。

京大在学中に学生劇団に入り、のちに映画監督となる大島渚などとともに演劇に熱中していた永井は、卒業前に二つばかり入社試験を受けたものの不合格で、いよいよ俳優になる決心を固め上京した。ところが「新劇御三家」と呼ばれる劇団のうち文学座と劇団民芸の試験に立て続け落ちて、その時点で残る俳優座を受ける勇気が失せてしまう。結局、全日制ではない夜間の小さな養成所に入った。あわせて生活のため、父親に紹介された人にアルバイト探しを頼んだものの、ひと月ほど待たされたあげく、「探したけど、ないよ。学歴を隠して、うちでメッセンジャーボーイをやらないか」と言われる。「うち」というのが電通で、その人は同社で部長を務めていた。

バイトを始めてしばらく経った頃、部長の机の引き出しにしまわれていた永井の履歴書が、うっかりその部署内の人間に見つかってしまう。悪いことに見つけた人が京大OBだったため、自分の後輩がアルバイトとはどういうことかと社内は騒ぎとなった。

ここから、電通にいた22人のバイトを全員正社員にするという話になり、社長面接が行なわれることになる。当時の社長は、広告代理業の近代化を推し進め、電通の発展の基礎を築いた吉田秀雄だ。アルバイトたちを前に、吉田があらためて「全員を社員に採用する」と告げると、永井は「私は役者になりたいので、電通の仕事には責任を持てません。辞めさせていただきます」ときっぱり申し出る。むろん、吉田は怒って、「クビだ」と言い放った。

吉田からの宣告を受けて、それから1週間ほど永井は会社に行かなかった。しかしバイトを紹介してくれた人には謝らねばとあらためて訪ねたところ、どういうわけか、「もう社員になることは決まったのだから、明日から出社しろ」と言われる。永井は、夜は養成所に行っているので無理だと渋ったものの、「いつ来て、いつ帰ってもいいから」と押し切られてしまう。結局、彼は電通側の好意に甘え、養成所に通いつつも2年ほど正社員として勤務することになる。

声優になったのは偶然のなりゆき!?

1955年に電通を退社後、永井は「劇団三期会」が次の公演のため俳優を募集していると聞きつけ、応募する。このとき採用されて、客演という形で舞台に立ったのが『感化院の暴動』という芝居だった。三期会の公演に出るのはそれで終わるはずだったが、何とか正式な劇団員として入れてもらえないかと頼みこみ、認められる。この劇団は俳優座養成所の出身者で結成されたものだが、永井は外部から始めて入団した俳優であったという。年齢からいっても、劇団員の平均年齢は21歳ぐらいで、当時24歳の永井は最年長だった。そのため公演では老け役ばかりが回ってくる。永井はこれを喜んで引き受けた。

時期的にはちょうどテレビ放送が始まったばかりの頃だ。アメリカ製のテレビドラマ『スーパーマン』(1956年)の吹き替えでは、三期会の俳優たちがユニット出演していた。ユニット出演というのは、主役やメインの登場人物以外の脇役全般を一劇団で引き受けるというものである。永井は舞台同様、ここでも年寄り役を演じた。

当時の吹き替え(アテレコ)はすべて生放送、永井いわく《トチったらトチりっぱなし、絶句したら絶句しっぱなしの時代》であった(『公研』2010年1月号)。そのなかで、若いのに老け役がやれる人がいると、永井の存在は認知されてゆく。なかでも、アメリカ製のテレビ西部劇『ローハイド』(1959年)への出演は、その後の彼の道を決定づける画期となった。もっともそうなったのには、偶然によるところが大きい。

当初、彼が声をあてる役には名前がなく、渡された台本には「御者1」としかなかった。セリフも「やあ、やあ」と「どうー」と言うぐらい。ようするに端役にすぎなかったわけだ。第1回のアテレコを終えたのち、ディレクターから、来週もスケジュールは空いているか聞かれる。仕事などほとんどないから、空いていた。そこで翌週もアテレコに赴く。このときもセリフは、一言、二言だけ。ディレクターからはまた予定を聞かれ、翌々週も仕事を引き受ける。

そんなことを1カ月ほど続けているうちに、「御者1」にウィッシュボンという名前がつく。出番もセリフも急に多くなり、いきなり準主役に成長したのである。草創期のテレビでは、洋画やアメリカ製のテレビドラマの放送も多かっただけに、『ローハイド』をきっかけに永井は老け役専門の声優として引っ張りだことなった。テレビのレギュラーが決まると、スケジュールが埋まってしまうので、舞台の稽古も旅公演もできない。そのため、いやでも応でも永井の仕事は声優に絞られることになった。

もし、『ローハイド』の第1回のあと、スケジュールが一週でも空いていなかったら、端役だからすぐに代役を立てられていたことだろう。そうなれば、“声優・永井一郎”は誕生していなかった可能性が高い。

《私が老け役専門の声優として評価を得たのはまったく偶然の積み重ねにすぎませんでした。こういうのを「運」がよかったと言います。もしこのとき、この「運」がなかったら、また全然別の道が開けていたかもしれません。映画の世界に行ったかもしれないし、舞台に踏み止どまったかもしれません。ひょっとしたらそのほうがよかったかもしれません。しかし歴史に「もし」はありません。声優として食べていけるようになったのですから「運」がよかったと言うべきでしょう》『永井一郎の「朗読のヒント」』

永井が声優になったことは、彼自身にとどまらず、声優をなりわいとする人たち全般にとっても幸運だったように思う。彼は、声優の地位向上や待遇改善のための活動でも中心的役割を担ったからだ。

声優の地位向上と待遇改善をめざして

先述のとおり、テレビ草創期に吹き替えの仕事は多かったが、映画俳優や新劇でも大劇団の俳優たちは声の仕事を避ける傾向が強かった。テレビを「電気紙芝居」と呼ぶなどバカにしていたし、アテレコを俳優の仕事とは見ていなかったからだ。1962年には、新劇の大御所のひとり、東野英治郎の「声優に危険手当てを」(『東京新聞』1962年2月19日付)という記事をきっかけに「アテレコ論争」が起こった。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes・note会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

ケイクス

この連載について

初回を読む
一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

abm この記事読みごたえあるよ> 4年以上前 replyretweetfavorite

korohito7 何だかすごく伝説的なお話だなあw◆ 4年以上前 replyretweetfavorite

almost_everyday やっと読みました。これ、すごい読み応え!: 4年以上前 replyretweetfavorite

matomotei 他2コメント http://t.co/VCLhAPNxHH 4年以上前 replyretweetfavorite