「みんなちがって、みんないい」
「ライブドア事件」で堀江貴文さんが、同種の事件(オリンパス事件など)に比べて明らかに重い刑罰を科されたように、現在の日本でも、目立っている人や進歩的な考え方をする人を圧殺するという問題は残っています。
ぼくらが目指すべきは、「多様性を認める、寛容な社会」を作り上げることです。金子みすゞの詩にあるように、「みんなちがって、みんないい」という価値観がほんとうに浸透するような社会です。
今の日本は表では「みんなちがって、みんないい」といいながら、裏では覆面をかぶって「ちがった人間」をボコボコに叩きのめす文化がはびこっているのです。
炎上経験者は、他人にやさしい
さて、「みんなちがって、みんないい」社会──。それはどのようにして作られるのか。さまざまな道がありますが、まずはぼくらが「炎上を恐れず、炎上できる人間になること」が、もっとも効果的な道なのではないかと考えます。
不思議なもので、一度「炎上する側」に立つと、他の人の多少の瑕疵(かし)や、思想的な違和感に対してはかなり寛容になれます。炎上を経験した人には、他の人にやさしくできる余地が生まれるのです。
たとえばぼくは、「若者の冷蔵庫炎上事件」に関しても、特段の問題意識は抱きません。「まぁ、そういう人もいるよね」という程度の感想です。
同業のジャーナリストやライターの方が、事実関係やデータなどを報道する際にミスを犯したとしても「まぁ、人間だし間違えることもあるよね。ぼくもよく間違えて炎上するよ」としか思いません(人命に関わる報道ミスは、さすがに問題だと思いますが……)。
炎上に慣れることで、他人だけでなく、自分に対しても寛容になることができ、それによって柔軟に変化できるようになるのもポイントです。
開き直りに聞こえるのは承知ですが、ぼくは不完全であり、間違った記述をしてしまうこともあります。年間200万文字近く執筆しているので、むしろ間違いがないほうが不思議です。時間を経て、いっていることが変わることもたびたびあります。ぼく自身、過去のブログを読んでいると「おいおい、何いってんだおまえ」と自分にツッコミを入れたくなってきます。
ぼくはそのくらい不完全なので、まぁ、炎上するのは当然です。落ち度もあれば、考えが未熟な点もあるでしょう。いまとなっては「イケダハヤトはバカだ」という中傷は、ぼくになんのダメージも与えません。
バカであるのは、ぼくにとって当たり前のことです。バカですが何か? 本当にバカなんだから仕方ないです。というか、人間誰しもバカじゃないですかね。……と、ぼくはこのくらいのスタンスで構えているので、自分の論述が明らかに矛盾しているのを指摘されたときは、「あぁ、たしかにこれは矛盾している」と素直に認めることができますし(そもそも人間は矛盾を抱える存在です)、罵詈雑言を受けてもそれほど気になりません。
まぁ、人間、完ぺきにはなれませんからね。「自分に甘い」といわれればそれまでですが、このくらいが健全だとぼくは考えています。そのことによって、ぼくには、他人に優しくなる余地が生じるのです。
責任感を持って情報発信すべきか?
こうしたぼくの立場に対しては、「影響力のある人間は、自分の発言に責任感を持つべきだ」という批判を投げかける人たちもいるでしょう。
まさにその通りですね。
ぼくもそう考えて、自分の発言の責任を最大限取ろうと努力は重ねています。でも、人間なので失敗はしますし、矛盾することをいってしまうことはあります。そういえばぼくも昨年、英語記事を誤訳してしまったことがあります(幸い、内容にそれほど影響を与えるものではありませんでしたが)。
人間である以上、こうしたミスをゼロにすることはできません。どこかに瑕疵はありますし、あなたを傷つける意見を発することもあるでしょう。
もちろんプロの物書きであることを自認しており、それを最小限にする努力はしていますが、ゼロにすることはできません。
ぼくが伝えたいのは、人間は誰しも根本的にはバカで、失敗もする生き物だということです。これは揺るぎない真理です。が、多くの人は、誰かが失敗してしまったときに、この真理を忘れ、「なぜ失敗したんだ!」と断罪します。
ぼくたち大人が考えなければいけないのは、誰かを断罪し、見せしめにし、挑戦意欲を萎縮させることではなく、いかにしてこの社会に「新しい挑戦」を育んでいくかということです。
怒られて育った人というのは、枠を破ることができません。つねに親や教師といった監督者の顔色をうかがい、その理解がえられる範囲でしか行動できません。もしも、監督者の理解を超えた挑戦をし、その結果、失敗しようものなら、全力で「だからいったじゃないか!」と叩かれます。そうしてさらに、顔色をうかがうようになります。
こういう空気感のなかでは、新しい挑戦は生まれません。挑戦したとしても、それはあくまで「怒られない範囲」に留まります。かわいそうにその人は、いつも「人の目」という鎖に縛られて生きていくしか、道がなくなってしまうでしょう。
時代はもう21世紀です。ぼくらはそろそろ「失敗を前提に挑戦する」という価値観を持たなければならないでしょう。失敗はよくあることとして、多少は目をつぶってどんどん挑戦してもらう。ミスをした人、挫折した人にも「挑戦はいいね!」とエールを送る。自分とは違う人たちを見た時には、叩くのではなく「何かやってくれそうだ!」と期待する。
そういう方向性に社会を持っていけば、「みんなちがって、みんないい」という価値観を、真の意味で実現することができるでしょう。
そして、そんな未来をつくるためには、まずは、ぼくら自身が本音を語り、覚悟を持って炎上できる人にならなければいけません。
今は誰もが内向きで、空気を読みあっている状態です。ここを打破するためには、内向きのエネルギーを、摩擦覚悟で外向きに変えようとする人たちが必要です。「空気を読んで黙りこむのが当たり前」である現実を、「空気を読まずに発言するのが当たり前」に変えていくのです。
まずは「立場」を築け
とはいえ、実際、この社会の中で、空気を読まずに自信を持って発言するのは怖いことです。いまのままの社会では、まだ、十中八九、炎上するでしょうから。
では、ぼくらが「炎上を恐れない心」を身につけるためには、何が必要なのでしょうか? メンタルを強くすれば、それでいい? 残念ながら、実際はメンタルの強化だけで十分だとはかぎりません。
たとえば、あなたが会社員であるとしましょう。
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